西大寺という駅から興福寺付近までを歩いた。大勢の人が同じ方向に歩く中で、歩くことに集中することを少し欠いている時間もあった。それでも、景色を楽しみ歩くことに集中する時間もあったことは収穫としたい。
注意はいったん途切れてもよい。途切れたことに引きずられるのはよくない。目的地や目的時間に意識が移ることがあった時は、マインドフルではなかった。今という時に集中する。
西大寺という駅から興福寺付近までを歩いた。大勢の人が同じ方向に歩く中で、歩くことに集中することを少し欠いている時間もあった。それでも、景色を楽しみ歩くことに集中する時間もあったことは収穫としたい。
注意はいったん途切れてもよい。途切れたことに引きずられるのはよくない。目的地や目的時間に意識が移ることがあった時は、マインドフルではなかった。今という時に集中する。
Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Atha kho aññatarā devatā abhikkantāya rattiyā abhikkantavaṇṇā kevalakappaṃ jetavanaṃ obhāsetvā yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ aṭṭhāsi. Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi –
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ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 6、破滅 散文
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。神が夜半に釈迦牟尼のところを訪れて問答する設定はSaṃyuttanikāyoにたくさん出て来る。
Dūraṅgamaṃ ekacaraṃ [ekacāraṃ (ka.)], asarīraṃ guhāsayaṃ;
Ye cittaṃ saṃyamessanti, mokkhanti mārabandhanā.
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ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元 訳 岩波文庫 真理のことば 第3章 心 37
瞑想をすると解るような気がする。
奈良の興福寺というところで、中金堂創建の本願・藤原不比等公の千二百年御遠忌の御追福が行われるという事で、参加させていただきました。春日大社宮司様始め同社の神職の方々も行事を執り行われるという事で、神仏混交で執り行われました。春日大社も興福寺も藤原氏ゆかりということで何の不都合もないわけです。そのあと、それにちなむ「藤原不比等公の千二百年御遠忌記念講演」があったためお話を聞いてきました。
正法眼蔵(1) 道元 著 水野弥穂子 校注 岩波文庫
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。
以下は管理者の解釈である。「わたしは仏道を習おうと思い立った時からずっと、国中のいたるところに仏道修行にすぐれた人を探し尋ねた。そして建仁寺の明全公にであった。その方に師事して秋と春を繰り返し九回がたった。その際すこし臨済の家風を聞いた。明全公は栄西和尚の高弟として、仏法の教えを正しく伝えられていた。われわれとくらべるような方ではないのである。」
以下は管理人の解釈である。「わたしは、その後大宋国に留学した。仏道修行にすぐれた人を、浙江の付近でさがし、それぞれの家風を五門で聞いた。そして太白峰山にある天童寺の如浄禅師に入門して、一生の弟子となることとなり、師匠探しは終わったのである。その後、大宋の紹定年間のはじめに本国に帰ったのは、正しい仏道による坐禅を広め衆生を救済しようと思ったからである。これは、重荷を肩にかけたような思いであった。」
‘‘Paññābalī sīlavatūpapanno, samāhito jhānarato satīmā;
Yadatthiyaṃ bhojanaṃ bhuñjamāno, kaṅkhetha kālaṃ idha vītarāgo’’ti.
… Mahāvaccho [mahāgavaccho (sī.)] thero….
パーリテキストでも詩句には12と番号が付されている。第2章としては2になる。
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仏弟子の告白 中村元 訳 岩波文庫 一つずつの詩句の集成 第2章 12
瞑想は修行である。
Sududdasaṃ sunipuṇaṃ, yatthakāmanipātinaṃ;
Cittaṃ rakkhetha medhāvī, cittaṃ guttaṃ sukhāvahaṃ.
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ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元 訳 岩波文庫 真理のことば 第3章 心 36
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。心に統一性があると考えるのは間違いである。瞑想を実際に行ってみればすぐに判明する。心は想念や感覚などを受け入れ手放すことによって変わっていく。ただし、効果があるなどと期待して行うものではなく、習慣とするものである。
Dunniggahassa lahuno, yatthakāmanipātino;
Cittassa damatho sādhu, cittaṃ dantaṃ sukhāvahaṃ.
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心は、捉(とら)え難く、軽々(かるがる)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元 訳 岩波文庫 真理のことば 第3章 心 35
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。禅とか瞑想について自己の体験の中で思うことや、瞑想の本に書かれていることには、こころの制御の難しさが書かれている。放っておけば自分の感情に飲み込まれたり、退屈で眠気を催したりもする。その断片的な想念の連続やその発生元をこころと呼んでいるが、なにが出てくるかは脳の回路である。修行や療法によって変化しうるものであり、自性を見つけることはできない。釈迦牟尼が否定しなかったからあるというなら、まず語られた事を知り、実践しようと試みるべきかとおもう。
Vārijova thale khitto, okamokataubbhato;
Pariphandatidaṃ cittaṃ, māradheyyaṃ pahātave.
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ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元 訳 岩波文庫 真理のことば 第3章 心 34
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、悪魔の支配―Māradheyya=kilesavaṭṭa.(煩悩による生死流転の輪)、Comm.vol.Ⅰ,p.289.とされる。つまりはこころの中の問題という事になる。しかし、自性があるならば変化することもないのでもがきまわることもない。
‘‘Kaṃ maggajinaṃ vadanti buddhā, (iti cundo kammāraputto)
Maggakkhāyī kathaṃ atulyo hoti;
Magge jīvati me brūhi puṭṭho, atha me āvikarohi maggadūsiṃ’’ [maggadūsī (ka.)].
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中村先生の訳注によると、道による勝者―道による勝者とはbuddhasamaṇaのことである(Pj.p.163)。これを逆に解すると、ブッダとは世の中に多数いる修行者のうちの一種類にほかならないのである。道を習い覚える人―maggajjhāyī.これをSkrt. mārgadhyāyinと解することができる。しかしまたSkrt. mārg‐adhyāyinであると解することもできる。後者の方が前の詩に出て来るmaggadesakaに良く対応すると思われる。ここで、目ざめた人々(buddhā)が複数形であることに注意せよ。次の詩でも
buddhāと複数になっている。つまり、この教えをシャーキヤ・ムニ(釈尊)が説いているのではない。「わたしが説くのだー」とは言わない。そういう傲り高ぶった気持をかれは持っていなかった。ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が説くのである。当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊はただ伝えただけにすぎないのである。かれには(仏教)という意識がなかったのであるとされる。
‘‘Yo tiṇṇakathaṃkatho visallo, nibbānābhirato anānugiddho;
Lokassa sadevakassa netā, tādiṃ maggajinaṃ vadanti buddhā.
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テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、安らぎ(ニルヴァーナ)―nibbāna.貪る執念をもたず―anānugiddho ti kañei dhammaṃ taṇhāgedhena ananugijjhanto(PJ.p.163).そのような人―tādin.すでに修行を完成し、他人のために範となる人をいうとされる。
‘‘Paramaṃ paramanti yodha ñatvā, akkhāti vibhajate idheva dhammaṃ;
Taṃ kaṅkhachidaṃ muniṃ anejaṃ, dutiyaṃ bhikkhunamāhu maggadesiṃ.
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正しいものを見分け、その法を説く人という存在があると説かれる。
‘‘Yo dhammapade sudesite, magge jīvati saññato satīmā;
Anavajjapadāni sevamāno, tatiyaṃ bhikkhunamāhu maggajīviṃ.
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中村先生の訳注によると、理法にかなったことば―dhammapada(=nibbāna-dhammassa pada.Pj.p.164).とされる。このようなことをこころがけたいものである。
‘‘Chadanaṃ katvāna subbatānaṃ, pakkhandī kuladūsako pagabbho;
Māyāvī asaññato palāpo, patirūpena caraṃ sa maggadūsī.
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普通の人の状態である。
‘‘Ete ca paṭivijjhi yo gahaṭṭho, sutavā ariyasāvako sapañño;
Sabbe netādisāti [sabbe ne tādisāti (sī. syā. pī.)] ñatvā, iti disvā na hāpeti tassa saddhā;
Kathaṃ hi duṭṭhena asampaduṭṭhaṃ, suddhaṃ asuddhena samaṃ kareyyā’’ti.
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ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 5、チュンダ 85-90
立派な事は目指すべくもないが釈迦牟尼は修行者たちについて現実的な見解をもっていたものと思われる。
Cundasuttaṃ pañcamaṃ niṭṭhitaṃ.
5、チュンダがおわる。出家者に面と向かって問えるだろうか。チュンダさんは涅槃経に出て来る方だと思われるが、最晩年の釈迦牟尼はこのように答えられたということであろう。