辨道話 岩波文庫 4

予(よ)、発心求法(ほつしんぐほう)よりこのかた、わが朝(くに)の遍方(へんぽう)に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華(さぅくわ)すみやかに九廻(きぅくわい)をへたり。いさゝか臨済の家風をきく。全公は祖師西(せい)和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝(しやうでん)せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。

正法眼蔵(1) 道元 著 水野弥穂子 校注  岩波文庫

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。
以下は管理者の解釈である。「わたしは仏道を習おうと思い立った時からずっと、国中のいたるところに仏道修行にすぐれた人を探し尋ねた。そして建仁寺の明全公にであった。その方に師事して秋と春を繰り返し九回がたった。その際すこし臨済の家風を聞いた。明全公は栄西和尚の高弟として、仏法の教えを正しく伝えられていた。われわれとくらべるような方ではないのである。」

予、かさねて大宋国(だいそうこく)におもむき、知識を両浙(りやうせち)にとぶらい、家風を五門にきく。ついに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事こゝにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定(ぜうてい)のはじめ、本郷(ほんぎやう)にかへりしすなはち、弘法救生(ぐほふくしやう)をおもひとせり。なほ、重担をかたにおけるがごとし。

以下は管理人の解釈である。「わたしは、その後大宋国に留学した。仏道修行にすぐれた人を、浙江の付近でさがし、それぞれの家風を五門で聞いた。そして太白峰山にある天童寺の如浄禅師に入門して、一生の弟子となることとなり、師匠探しは終わったのである。その後、大宋の紹定年間のはじめに本国に帰ったのは、正しい仏道による坐禅を広め衆生を救済しようと思ったからである。これは、重荷を肩にかけたような思いであった。」

12 一つずつの詩句の集成 第2章

12. Mahāvacchattheragāthā  2. Dutiyavaggo
1. Ekakanipāto Theragāthāpāḷi

‘‘Paññābalī sīlavatūpapanno, samāhito jhānarato satīmā;

Yadatthiyaṃ bhojanaṃ bhuñjamāno, kaṅkhetha kālaṃ idha vītarāgo’’ti.

… Mahāvaccho [mahāgavaccho (sī.)] thero….

パーリテキストでも詩句には12と番号が付されている。第2章としては2になる。
The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

知慧の力あり、戒しめと誓いを身に具現し、心が安定し、瞑想を楽しみ、落ち着いて気をつけていって、適当な食物を食する人は、貪りを離れて、この世で死ぬ時を待つべきである。

 マハーガヴァッチャ長老

仏弟子の告白 中村元 訳  岩波文庫  一つずつの詩句の集成 第2章 12

瞑想は修行である。

36 第3章 心

36 3. Cittavaggo Dhammapadapāḷi

Sududdasaṃ sunipuṇaṃ, yatthakāmanipātinaṃ;

Cittaṃ rakkhetha medhāvī, cittaṃ guttaṃ sukhāvahaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

心は、極(きわ)めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。

ブッダの真理のことば 感興のことば   中村元 訳   岩波文庫   真理のことば  第3章 心   36

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。心に統一性があると考えるのは間違いである。瞑想を実際に行ってみればすぐに判明する。心は想念や感覚などを受け入れ手放すことによって変わっていく。ただし、効果があるなどと期待して行うものではなく、習慣とするものである。

35 第3章 心

35 3. Cittavaggo Dhammapadapāḷi

Dunniggahassa lahuno, yatthakāmanipātino;

Cittassa damatho sādhu, cittaṃ dantaṃ sukhāvahaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

心は、捉(とら)え難く、軽々(かるがる)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

ブッダの真理のことば 感興のことば   中村元 訳   岩波文庫   真理のことば  第3章 心   35

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。禅とか瞑想について自己の体験の中で思うことや、瞑想の本に書かれていることには、こころの制御の難しさが書かれている。放っておけば自分の感情に飲み込まれたり、退屈で眠気を催したりもする。その断片的な想念の連続やその発生元をこころと呼んでいるが、なにが出てくるかは脳の回路である。修行や療法によって変化しうるものであり、自性を見つけることはできない。釈迦牟尼が否定しなかったからあるというなら、まず語られた事を知り、実践しようと試みるべきかとおもう。

34 第3章 心

34 3. Cittavaggo Dhammapadapāḷi

Vārijova thale khitto, okamokataubbhato;

Pariphandatidaṃ cittaṃ, māradheyyaṃ pahātave.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

水の中の住居(すみか)から引き出されて陸の上に投げすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。

ブッダの真理のことば 感興のことば   中村元 訳   岩波文庫   真理のことば  第3章 心   34

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、悪魔の支配―Māradheyya=kilesavaṭṭa.(煩悩による生死流転の輪)、Comm.vol.Ⅰ,p.289.とされる。つまりはこころの中の問題という事になる。しかし、自性があるならば変化することもないのでもがきまわることもない。

85 第1 蛇の章 5、チュンダ

85 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ

‘‘Kaṃ maggajinaṃ vadanti buddhā, (iti cundo kammāraputto)

Maggakkhāyī kathaṃ atulyo hoti;

Magge jīvati me brūhi puṭṭho, atha me āvikarohi maggadūsiṃ’’ [maggadūsī (ka.)].

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を〈道による勝者〉と呼ばれるのですか?また〈道を習い覚える人〉はどうして無比なのですか?またおたずねしますが、〈道によって生きる〉ということを説いてください。また〈道を汚す者〉をわたくしに説き明かしてください。」

中村先生の訳注によると、道による勝者―道による勝者とはbuddhasamaṇaのことである(Pj.p.163)。これを逆に解すると、ブッダとは世の中に多数いる修行者のうちの一種類にほかならないのである。道を習い覚える人―maggajjhāyī.これをSkrt. mārgadhyāyinと解することができる。しかしまたSkrt. mārg‐adhyāyinであると解することもできる。後者の方が前の詩に出て来るmaggadesakaに良く対応すると思われる。ここで、目ざめた人々(buddhā)が複数形であることに注意せよ。次の詩でも
buddhāと複数になっている。つまり、この教えをシャーキヤ・ムニ(釈尊)が説いているのではない。「わたしが説くのだー」とは言わない。そういう傲り高ぶった気持をかれは持っていなかった。ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が説くのである。当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊はただ伝えただけにすぎないのである。かれには(仏教)という意識がなかったのであるとされる。

86 第1 蛇の章 5、チュンダ

86 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ

‘‘Yo tiṇṇakathaṃkatho visallo, nibbānābhirato anānugiddho;

Lokassa sadevakassa netā, tādiṃ maggajinaṃ vadanti buddhā.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

「疑いを超(こ)え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念を持たず、神々と世間とを導く人、―そのような人を〈道による勝者〉であると目ざめた人々は説く。

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、安らぎ(ニルヴァーナ)―nibbāna.貪る執念をもたず―anānugiddho ti kañei dhammaṃ taṇhāgedhena ananugijjhanto(PJ.p.163).そのような人―tādin.すでに修行を完成し、他人のために範となる人をいうとされる。

87 第1 蛇の章 5、チュンダ

87 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ

‘‘Paramaṃ paramanti yodha ñatvā, akkhāti vibhajate idheva dhammaṃ;

Taṃ kaṅkhachidaṃ muniṃ anejaṃ, dutiyaṃ bhikkhunamāhu maggadesiṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶(た)ち欲念に動かされない聖者を、修行者たちのうちで第二の〈道を説く者〉と呼ぶ。

正しいものを見分け、その法を説く人という存在があると説かれる。

88 第1 蛇の章 5、チュンダ

88 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ

‘‘Yo dhammapade sudesite, magge jīvati saññato satīmā;

Anavajjapadāni sevamāno, tatiyaṃ bhikkhunamāhu maggajīviṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

みごとに説かれた〈理法にかなったことば〉である〈道〉に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者のうちで第三の〈道によって生きる者〉と呼ぶ。

中村先生の訳注によると、理法にかなったことば―dhammapada(=nibbāna-dhammassa pada.Pj.p.164).とされる。このようなことをこころがけたいものである。

89 第1 蛇の章 5、チュンダ

89 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ

‘‘Chadanaṃ katvāna subbatānaṃ, pakkhandī kuladūsako pagabbho;

Māyāvī asaññato palāpo, patirūpena caraṃ sa maggadūsī.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

善く誓戒(せいかい)を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚(けが)し、傲慢(ごうまん)で、いつわりをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、―かれは〈道を汚す者〉である。

普通の人の状態である。

90 第1 蛇の章 5、チュンダ

90 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ

‘‘Ete ca paṭivijjhi yo gahaṭṭho, sutavā ariyasāvako sapañño;

Sabbe netādisāti [sabbe ne tādisāti (sī. syā. pī.)] ñatvā, iti disvā na hāpeti tassa saddhā;

Kathaṃ hi duṭṭhena asampaduṭṭhaṃ, suddhaṃ asuddhena samaṃ kareyyā’’ti.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

(かれらの特徴を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫 第1 蛇の章 5、チュンダ 85-90

立派な事は目指すべくもないが釈迦牟尼は修行者たちについて現実的な見解をもっていたものと思われる。

Cundasuttaṃ pañcamaṃ niṭṭhitaṃ.

5、チュンダがおわる。出家者に面と向かって問えるだろうか。チュンダさんは涅槃経に出て来る方だと思われるが、最晩年の釈迦牟尼はこのように答えられたということであろう。