85 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ
‘‘Kaṃ maggajinaṃ vadanti buddhā, (iti cundo kammāraputto)
Maggakkhāyī kathaṃ atulyo hoti;
Magge jīvati me brūhi puṭṭho, atha me āvikarohi maggadūsiṃ’’ [maggadūsī (ka.)].
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鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を〈道による勝者〉と呼ばれるのですか?また〈道を習い覚える人〉はどうして無比なのですか?またおたずねしますが、〈道によって生きる〉ということを説いてください。また〈道を汚す者〉をわたくしに説き明かしてください。」
中村先生の訳注によると、道による勝者―道による勝者とはbuddhasamaṇaのことである(Pj.p.163)。これを逆に解すると、ブッダとは世の中に多数いる修行者のうちの一種類にほかならないのである。道を習い覚える人―maggajjhāyī.これをSkrt. mārgadhyāyinと解することができる。しかしまたSkrt. mārg‐adhyāyinであると解することもできる。後者の方が前の詩に出て来るmaggadesakaに良く対応すると思われる。ここで、目ざめた人々(buddhā)が複数形であることに注意せよ。次の詩でも
buddhāと複数になっている。つまり、この教えをシャーキヤ・ムニ(釈尊)が説いているのではない。「わたしが説くのだー」とは言わない。そういう傲り高ぶった気持をかれは持っていなかった。ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が説くのである。当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊はただ伝えただけにすぎないのである。かれには(仏教)という意識がなかったのであるとされる。
86 第1 蛇の章 5、チュンダ
86 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ
‘‘Yo tiṇṇakathaṃkatho visallo, nibbānābhirato anānugiddho;
Lokassa sadevakassa netā, tādiṃ maggajinaṃ vadanti buddhā.
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「疑いを超(こ)え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念を持たず、神々と世間とを導く人、―そのような人を〈道による勝者〉であると目ざめた人々は説く。
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、安らぎ(ニルヴァーナ)―nibbāna.貪る執念をもたず―anānugiddho ti kañei dhammaṃ taṇhāgedhena ananugijjhanto(PJ.p.163).そのような人―tādin.すでに修行を完成し、他人のために範となる人をいうとされる。
87 第1 蛇の章 5、チュンダ
87 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ
‘‘Paramaṃ paramanti yodha ñatvā, akkhāti vibhajate idheva dhammaṃ;
Taṃ kaṅkhachidaṃ muniṃ anejaṃ, dutiyaṃ bhikkhunamāhu maggadesiṃ.
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この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶(た)ち欲念に動かされない聖者を、修行者たちのうちで第二の〈道を説く者〉と呼ぶ。
正しいものを見分け、その法を説く人という存在があると説かれる。
88 第1 蛇の章 5、チュンダ
88 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ
‘‘Yo dhammapade sudesite, magge jīvati saññato satīmā;
Anavajjapadāni sevamāno, tatiyaṃ bhikkhunamāhu maggajīviṃ.
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みごとに説かれた〈理法にかなったことば〉である〈道〉に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者のうちで第三の〈道によって生きる者〉と呼ぶ。
中村先生の訳注によると、理法にかなったことば―dhammapada(=nibbāna-dhammassa pada.Pj.p.164).とされる。このようなことをこころがけたいものである。
89 第1 蛇の章 5、チュンダ
89 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ
‘‘Chadanaṃ katvāna subbatānaṃ, pakkhandī kuladūsako pagabbho;
Māyāvī asaññato palāpo, patirūpena caraṃ sa maggadūsī.
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善く誓戒(せいかい)を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚(けが)し、傲慢(ごうまん)で、いつわりをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、―かれは〈道を汚す者〉である。
普通の人の状態である。
90 第1 蛇の章 5、チュンダ
90 1.Uragavaggo 5. Cundasuttaṃ
‘‘Ete ca paṭivijjhi yo gahaṭṭho, sutavā ariyasāvako sapañño;
Sabbe netādisāti [sabbe ne tādisāti (sī. syā. pī.)] ñatvā, iti disvā na hāpeti tassa saddhā;
Kathaṃ hi duṭṭhena asampaduṭṭhaṃ, suddhaṃ asuddhena samaṃ kareyyā’’ti.
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(かれらの特徴を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」
ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 5、チュンダ 85-90
立派な事は目指すべくもないが釈迦牟尼は修行者たちについて現実的な見解をもっていたものと思われる。
Cundasuttaṃ pañcamaṃ niṭṭhitaṃ.
5、チュンダがおわる。出家者に面と向かって問えるだろうか。チュンダさんは涅槃経に出て来る方だと思われるが、最晩年の釈迦牟尼はこのように答えられたということであろう。