身心(しんじん)を挙(こ)して色(しき)を見取し、身心を挙して声(じやう)を聴取するに、したしく会取(ういしゆ)すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにはあらず。
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。
以下は管理人の解釈である。「自分自身を総動員して、形を正確に見ようとし、自分自身を総動員して音を正確に聞こうと努め、継続して形や音に接してきたが、かがみのように正確に写すよう認識することはできず、水が月を映しとるようにはならない。」
一方を証するときは、一方はくらし。
「同じものとして捉えることができない。」
仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふといふは、自己をわするゝなり。
「仏道修行をしようとすることは、自分というものが何であるかを調べることである、自分が何であるかを調べることは、自我を忘れないとできない。」
自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。
「自我を忘れるという方法によって、仏の教えに証明されるのである。」
万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己(たこ)の身心をして脱落(だつらく)せしむるなり。
「仏の教えに証明されるというのは、自分という者や他人という者を忘れてしまうことである。」
悟迹(ごじやく)の休歇(きうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちやうちやうしゆつ)ならしむ。
「いったんさとれば、さとりの感覚が自分のなかにのこるので、のこされたさとりの感覚は長くつかうことができるのである。」
正法眼蔵(1) 道元 著 水野弥穂子 校注 岩波文庫