現成公案 3 正法眼蔵岩波文庫

身心(しんじん)を挙(こ)して色(しき)を見取し、身心を挙して声(じやう)を聴取するに、したしく会取(ういしゆ)すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにはあらず。

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。
以下は管理人の解釈である。「自分自身を総動員して、形を正確に見ようとし、自分自身を総動員して音を正確に聞こうと努め、継続して形や音に接してきたが、かがみのように正確に写すよう認識することはできず、水が月を映しとるようにはならない。」

一方を証するときは、一方はくらし。

「同じものとして捉えることができない。」

仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふといふは、自己をわするゝなり。

「仏道修行をしようとすることは、自分というものが何であるかを調べることである、自分が何であるかを調べることは、自我を忘れないとできない。」

自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。

「自我を忘れるという方法によって、仏の教えに証明されるのである。」

万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己(たこ)の身心をして脱落(だつらく)せしむるなり。

「仏の教えに証明されるというのは、自分という者や他人という者を忘れてしまうことである。」

悟迹(ごじやく)の休歇(きうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちやうちやうしゆつ)ならしむ。

「いったんさとれば、さとりの感覚が自分のなかにのこるので、のこされたさとりの感覚は長くつかうことができるのである。」

正法眼蔵(1) 道元 著 水野弥穂子 校注  岩波文庫

令和元年5月3日 歩く瞑想

西大寺という駅から興福寺付近までを歩いた。大勢の人が同じ方向に歩く中で、歩くことに集中することを少し欠いている時間もあった。それでも、景色を楽しみ歩くことに集中する時間もあったことは収穫としたい。
注意はいったん途切れてもよい。途切れたことに引きずられるのはよくない。目的地や目的時間に意識が移ることがあった時は、マインドフルではなかった。今という時に集中する。

散文 第1 蛇の章 6、破滅

散 1.Uragavaggo 6. Parābhavasuttaṃ

Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Atha kho aññatarā devatā abhikkantāya rattiyā abhikkantavaṇṇā kevalakappaṃ jetavanaṃ obhāsetvā yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ aṭṭhāsi. Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi –

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

わたくしが聞いたところによると、―あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェーダ林、(孤独なる人々に食を給する長者)の園におられた。そのとき一人の容色(ようしょく)麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェーダ林を隈(くま)なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫 第1 蛇の章 6、破滅 散文

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。神が夜半に釈迦牟尼のところを訪れて問答する設定はSaṃyuttanikāyoにたくさん出て来る。