息を数えることが出来た。まだ数えることが必要だともいえる。ただ坐るというのはなかなか実現できない。
月: 2019年9月
令和元年9月30日 利き手でないほうの手を使う
浴槽はまんべんなく洗った。食事ではバラバラになったご飯を箸でつまむのはむずかしかった。自分の手への感謝も生まれる。
令和元年9月29日 作務
砕石のうえに落ちた木の葉を一枚づつ集める。身体の動きはあったが、意識は木の葉にあつまった。
令和元年9月29日 利き手でないほうの手を使う
この練習は、一旦始めるとしばらく続けないと始める前に戻ってしまう。浴槽洗いは直線的な動かせ方や回すような単調な動きで対応する。昼食での箸の使い方はゲームのようだ。どんぶりを洗ってみたが、手がいつもの位置に戻りたがっている。
225 第2 小なる章
227 2. Cūḷavaggo 1. Ratanasuttaṃ
Khayaṃ virāgaṃ amataṃ paṇītaṃ, yadajjhagā sakyamunī samāhito;
Na tena dhammena samatthi kiñci, idampi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ;
Etena saccena suvatthi hotu.
The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/
心を統一したサキャムニは、(煩悩(ぼんのう)の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、—その理法と等しいものは何も存在しない。この勝れた宝は理法のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第2 小なる章 1、宝 225
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。
令和元年9月28日 利き手でないほうの手を使う
朝、浴槽を利き手ではないほうの手で洗う。動きは少々荒いがスポンジを動かすのには差支えはすくない。昼食では、箸の使い方の感覚が多少戻ったが、フォークを使うような癖がある。上手に出来るようになればそれはそれで便利であるが、上手にならなくても集中するということに意味がある。
令和元年9月27日 利き手でないほうの手を使う
ジャン・チョーズン・バイズ著、高橋由紀子訳、日本実業出版発行の『「今、ここ」に意識を集中する練習』という本があります。この本の紹介する最初の練習が「利き手でないほうの手」を使うというエクササイズです。
たとえば、歯を磨く、髪をとかす、食事をする(全部は無理でも一部だけでも)などの動作を、右利きの人は左手で行います。この練習による気づきは禅が教える「初心に戻ること」ですと著者はいいます。
久しぶりに食事で取り組みました。昼食はうどんでした。うどんが箸の間から抜けていきます。ゆっくりと時間をかけて味わいます。義務のように行っていた食事が、ひとつひとつの動作に細分化され、身体の動きを味わうことが出来ました。
令和元年9月27日 自転車での瞑想
出入息を数える方法をつかう。数が優先しているか、息が優先しているかは微妙であるが、かなり長い時間続けることが出来た。
令和元年9月26日 自転車での瞑想
走り出してしばらくして、自転車に乗車した姿勢がおかしいのか。前方数メートルをみていた。なんとか前方を見ることに注意した。息の出入りに数字をつける方法をおこなった。
136 第10章 暴力
136 10. Daṇḍavaggo Dhammapadapāḷi
Atha pāpāni kammāni, karaṃ bālo na bujjhati;
Sehi kammehi dummedho, aggidaḍḍhova tappati.
The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/
しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。―火に焼きこがされた人のように。
ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元 訳 岩波文庫 真理のことば 第10章 悪 136
後で後悔しないように振舞うことは難しい。怒りに任せのちの結果が予想できるのに困難をさける方向に振舞う事が出来ないこともある。