10 第1 蛇の章 1、蛇

10 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ vitathamidanti vītalobho;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪(むさぼ)りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 第1 蛇の章 1、蛇 10

書物の漢字ルビはカッコ書きで表現した。中村先生の別の部分の注釈によると、貪りは仏教の学問でいう三毒の一つであるとする。この経は貪りに重点を置きそれを捨て去るよう勧めているものと思う。9の知っていると10の離れたには、知識と実践という違いがあると思う。仏教は知識として知っているだけでなく、実践が特に大切なので経が重ねられたのかもしれない。知っていることももちろん重要である。

9 第1 蛇の章 1、蛇

9 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ vitathamidanti ñatvā [utvā (syā. pī. ka.)] loke;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄(きょもう)である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 9

書物の漢字にあててあったルビはカッコ書きで表示した。虚妄を新明解第4版で調べると、事実・ではない(とは違っている)こと。うそいつわり。とある。

中道であることと、自分が知覚している外界の出来事は、真実ではないという事になる。社会の出来事や考えに振り回されてはいけないということだと思う。

8  第1 蛇の章 1、蛇

8  1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ accagamā imaṃ papañcaṃ;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり超(こ)えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 8

書物の漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈では、註によると、努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなくの意で、つまり中道の思想を説いているとされる。妄想の語は漢訳仏典ではよく「戯論」と訳されるとのことである。

極論や極端な行為はダメということだと思う。

釈迦は、6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることができないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のナイランジャナー川(Nairañjanā、尼連禅河)[2]に沐浴をした。

「スジャータは、「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施しましょう」とニグローダ樹に祈った。その望みの通りになったため、祭祀を行っていた。スジャータの下女は、プンナー(Puññā)樹下に坐していた釈迦を見て、樹神と思い、スジャータに知らせた。すると、スジャータは、喜んでその場に赴いて、釈迦に供養した(乳粥供養)。釈迦は、スジャータから与えられた乳がゆ(Pāyāsa)を食して、ナイランジャナー川に沐浴した。なお、『スッタニパータ』では、スジャータは、この乳がゆに、諸天妙汁(Oja)を加えていたと記している。心身ともに回復した釈迦は、心落ち着かせて、近隣の森の大きな菩提樹下に座し、(東アジアの伝承では旧暦12月8日に)遂に叡智を極め悟りを得て、仏教が成道した。
一般的に、釈迦がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある。 」 https://ja.wikipedia.org/wiki/スジャータ

軟弱なわたしの中道と、釈迦牟尼の中道とが同じ程度かといわれると、そうではないと思わざるをえない。



7 第1 蛇の章 1、蛇

7  1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassa vitakkā vidhūpitā, ajjhattaṃ suvikappitā asesā;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整(ととの)えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 7

書物の漢字のルビはカッコ書きで表現した。中村先生の注釈によれば、ここで想念というのは、思慮し思考することである。心の静まった修行者には思慮分別はいらない、ということであるとされる。

心は一時も静まることがなく、お腹がすいた。腹が立つ。請求書が来るはずだ。眠い。昔あった出来事についての自己の感情の回想、将来への不安など一時も休むことがない。人間の獲得した知能は自分自身を苦しめることになった。

わたしたちの遠い祖先が送っていた狩猟生活では、闘うか逃げるかという局面に出会うことがあったか、釈迦牟尼の時代を含め近代においては、人間は物音など少しの出来事や、それに伴う想像思考において交感神経優位となってしまうこととなった。

「闘争・逃走反応(とうそう・とうそうはんのう、英語: fight-or-flight response)は、1929年ウォルター・B・キャノンによって初めて提唱された動物恐怖への反応である[1][2][3]闘争か逃走か反応戦うか逃げるか反応ともいい、戦うか逃げるかすくむか反応(fight-or-flight-or-freeze response)、過剰反応(hyperarousal)、急性ストレス反応(acute stress response)とされることもある。『火事場の馬鹿力』と訳されることもある[4]

キャノンの説によると、動物は恐怖に反応して交感神経系の神経インパルスを発し、自身に戦うか逃げるかを差し迫るという。この反応は、脊椎動物あるいはその他の生物ストレス反応を引き起こす一般適応症候群の初期段階として後に知られるようになった。」https://ja.wikipedia.org/wiki/戦うか逃げるか反応

人間以外の多くの動物は、実際の危険に対応するという必要な反応であるということである。釈迦牟尼の時代にも、このような能力は過剰なものになっていったと思われる。
わたしたち人間は、思考し、未来に不安を持ち、過去を悔やむ能力を獲得したことによって、この反応を頻繁かつ過剰に起こし、自分たちの持っている体内の武器で自分自身を傷つけるようになった。

6 第1 蛇の章 1、蛇

6 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassantarato na santi kopā, itibhavābhavatañca [itibbhavābhavatañca (ka.)] vītivatto;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

内に怒ることなく、世の栄枯盛衰(えいこせいすい)を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 第1 蛇の章 1、蛇 6

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生は、世の栄枯盛衰という部分の訳については、註(参照された書物の註だと思われる)にしたがって解釈したとされる。原語の意義は、おそらく「(このようになりたい、あのようになりたい)ということを超越した」の意であろうとされる。

ここで超越という言葉が入っていると、単純な隠遁生活を指すものではないと思われる。言い換えると、こだわらないという事に近いと感じる。こだわらないだけでは、求道という意味も落としてしまう可能性があり、このような文章になったのであろうか。世間的な自己の欲望を脱落させよと解釈できる。

どちらかというと負け惜しみをいうような人生を送ってきたわたしは、この様な欲望を常に抱えてきた。およそ世の中の達人と呼ばれるような人々は、他人と比べてこのようになりたいなどとは思わないのであろう。

普勧坐禅儀


観音導利興聖宝林寺沙門 道元 選

 原ればそれ、

道本円通ず、いずくんぞ修証を仮らん。

宗乗自在なり、なんぞく功夫を費やさん。

 いわんや、

全体はるかに、塵埃を出でたり、孰か払拭の手段を
信べん。

大都、当処を離れず、あに修行の脚頭を用いんや。

 しかれども、

毫釐も差あれば、天地懸隔なり、

違順わずかに起これば、紛然として失心す。

 たとい、

会に誇り悟に豊かに、瞥地の智通を獲、

得道明心して、衝天の志気を挙げ、

入頭の辺量に逍遥すといえども、

いくばくか出身の活路を虧闕せる。

 いわんや、かの、

祇園の生知なる、端座六年の蹤跡見るべし。

少林の心印を伝えし、面壁九歳の声名、なお聞こ
ゆ。

古聖すでに然り。今人、なんぞ弁ぜざらん。

 ゆえに、

すべからく尋言逐語の解行を休すべし。

すべからく回向返照の退歩を学すべし。

身心自然に脱落し、本来の面目現前せん。

恁麼の事を得んと欲わば、いそぎ恁麼の事を務むべ
し。

 それ、

参禅は、静室宜し。飲食節あり。

諸縁を放捨し、万事を休息すべし。

善悪を思わず、是非を管することなかれ。

心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし、

作仏を図ることなかれ、あに、坐臥にかかわらん
や、

尋常の坐処、厚く坐物を敷き、上に蒲団を用いる。

あるいは結跏趺坐、あるいは半跏趺坐。

 謂く、

結跏趺坐は、先ず右の足をもって左の腿の上に安き
き、左の足を右の腿の上に安く。

半跏趺坐は、ただ、左の足をもって右の腿を圧すな
り。

衣帯を寛繋し、斉整ならしむべし。

 次に、

右の手を左の足の上に安き、左の掌を右の掌の上に

安く。両つの大拇指、面相柱う。

すなわち正身端坐して、左に側ち右に傾き、

前に躬り後に仰ぐことを得ざれ。

 要らず。

耳と肩と対し、鼻と臍と対せしむべし。

舌は上の顎に掛けて、唇歯相著けよ。目はすべから
く常に開くべし。

鼻息微通す。身相すでに調えて、欠気一息し、左右
に揺振すべし。

兀々と坐定して、思量箇不思量底。不思量底、如何
思量。非思量、これすなわち坐禅の要術なり。

 いわゆる。

坐禅は習禅にあらず。ただ、これ、安楽の法門な
り。

究尽菩提の修証なり。公按現成し、羅籠いまだ至ら
ず。

もしこの意を得ば、龍の水を得るがごとし、
虎の山に靠するに似たり。

 まさに知るべし、

正法自ら現前し、昏散先より撲落す。

 もし、

坐より起たんには、徐々として動身し、安詳として

起つべし、卒暴なるべからず。

 賞観すれば、

超凡、越聖、坐脱立亡、この力に一任す。

 いわんや、また、

指竿針鎚の転機を拈じ、払拳棒喝の証契を拳する、

いまだこれ、思量分別のよく解するところにあらず、

あに、神通修証のよく知るところたらんや。

声色の外の威儀たるべし、なんぞ、知見の前の軌則にあらざらん者や。

 しかればすなわち、

上智下愚を諭ぜず、利人鈍者を簡ぶことなかれ。

専一に功夫せば、まさにこれ、弁道なり。

修証自ら染汚せず、趣向さらにこれ、平常なる者なり。

 およそこれ、

自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を檀にす。

ただ、打坐を務めて、兀地に礙えらる。

万別千差と謂うといえども、祗官参禅弁道す。

なんぞ自家の坐牀を抛却して、謾らに他国の塵境に去来せん。

もし一歩を錯れば、当面蹉過す。

すでに人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ることなかれ。

仏道の要機を保任す、誰かいたずらに石火を楽しまん。

 しかのみならず、

形質は草露のごとし、運命電光に似たり。

倐忽としてすなわち空し、須臾もすればすなわち失す。

 冀くはそれ、

参学の高流、久しく模象に習って、真龍を怪しむことなかれ。

直指端的の道に精進し、絶学無為の人に尊貴ならん。

仏々の菩提に合沓し、祖々の三昧に嫡嗣ならん。

久為恁麼、須是恁麼(卍山本「久しく恁麼なることをなせば、須らくこれ恁麼なるべし」)、

宝蔵自ら開け、受用如意ならん。

普勧坐禅儀 法話 終

道元「小参・法話・普勧坐禅儀」全約注 大谷哲夫 講談社学術文庫

5  第1 蛇の章 1、蛇

5  1. Uragavaggo  1. Uragasuttaṃ

Yo nājjhagamā bhavesu sāraṃ, vicinaṃ pupphamiva [pupphamiva (bahūsu)] udumbaresu;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

無花果(いちじく)の樹(き)の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々(もろもろ)の生存状態のうちに堅固(けんご)なものを見出さない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 5

本にルビのあるものは、カッコ書きで表記した。中村先生の注釈によれば、堅固なものとは、「常住性または本性」と解するとされる。事物のうちに堅固なものを見出さないとは、つまり〈空〉であるということであり、〈空〉の思想は、最初期にまでたどることができるという。

事物に堅固なものを見出さないという観察は、釈迦牟尼の考え方の基本ともなるものと考える。わたしは、それは苦しみでもあるが、救いでもあると感じている。もしも、ものが堅固なものであるとすれば、他から何ほどの影響を受けることもなく、有るものはそのまま存在し、滅することもないし、無いものは生まれでることもないことになる。自己においては、学び向上するということもないことになる。

わたしは、〈空〉ということについては、未だに理解が不足しており、「あるものは相互依存によって影響し合いながら存在し、独立して存在しているのではないということ」と、「常住する自己や事物はない。常に変化を続けており現在の自己や事物は、過去や未来の自己や事物と同一ではない」などと理解している。

4  第1 蛇の章 1、蛇

4  1. Uragavaggo  1. Uragasuttaṃ

Yo mānamudabbadhī asesaṃ, naḷasetuṃva sudubbalaṃ mahogho;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

激流が弱々しい葦(あし)の橋を壊(こわ)すように、すっかり驕慢(きょうまん)を滅し尽した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 4

書物の漢字にあるルビはカッコ書きで示した。中村先生の注釈によれば、今回橋と訳した言葉は「堤」とか「堤防」と解されることが多かったが、パーリ語では専ら「橋」を意味すると、スリランカの学僧が語ったという。

驕慢とは、新明解第4版によれば、「驕慢」と読み、意味として「自分だけが偉いと思い、他人を見くだして、勝手な事をする様子」とある。何かと胸に刺さる言葉である。

3 第1 蛇の章 1、蛇 

3  1. Uragavaggo  1. Uragasuttaṃ

Yo taṇhamudacchidā asesaṃ, saritaṃ sīghasaraṃ visosayitvā;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

奔(はし)り流れる妄執の水流を涸(か)らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 3

本にルビのあるものはカッコ書きで表示した。妄執を新明解第4版で調べると、読みは「もうしゅう」とあり、意味としては「迷いの心から起こる執念」とある。用例として「修羅シュラのー」とある。

凡夫であるわたしは、迷いの世界に生きており、その迷いをもとにした世界を勝手に作り、その世界の在り方に拘り、顛倒した色々な思いを抱き続けている。次々にわき起こり消えていく思考や感情が、自分自身だと信じている。ある時は、1秒後にも思い出すこともない思いであったり、自己の嫌悪する体験にもとづくと信じる感情を反芻し続けたりする。自分自身は、一時も思考から離れることができない。そして、それを自分自身だと信じて苦しんでいる。ここが迷いの世界だと解る事と、その世界で、次々に起こる思考や感情が自分自身ではないことを知ることが必要だと知ろう。

平成31年3月10日 参禅

今日は、3度目のお寺さんでの坐禅を体験しました。堂内は、始めたころはまだ薄暗く,終わるころには明るくなりました。なかなか無念無想とか、呼吸に集中するというところまではいかなくて、本で読んだ慈悲の瞑想とかを、自分なりにアレンジして試みたりもしました。足はあぐらに組んでいますので、痛くなるという事はありませんでしたが、なぜか上半身が後ろに引かれる感じで、後ろに倒れそうになるのをこらえることがあります。
3月になり、堂内の空気もかなり温かくなってきたせいか、鼻腔を通る冷たい空気を感じるということで鼻腔の先で空気の出入りを感じ、呼吸に戻るという工夫をすることは、あまり出来ませんでしたが、お寺さんで足を組むという事はやはり格別で、なにかしらかの達成感のようなものを感じることが出来ます。