18 第1 蛇の章 2、ダニヤ

18 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Pakkodano duddhakhīrohamasmi, (iti dhaniyo gopo)

Anutīre mahiyā samānavāso;

Channā kuṭi āhito gini, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

牛飼いダニヤがいった、

「わたしはもう飯を炊(た)き、乳を搾(しぼ)ってしまった。マヒ―河の岸のほとりに、わたしは(妻子と)ともに住んでいます。わが小舎(こや)の屋根は葺(ふ)かれ、火(ひ)は点(とも)されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

19 第1 蛇の章 2、ダニヤ

19 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Akkodhano vigatakhilohamasmi [vigatakhīlohamasmi (sī. pī.)], (iti bhagavā)

Anutīre mahiyekarattivāso;

Vivaṭā kuṭi nibbuto gini, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

師は答えた、

「わたくしは怒ることなく、心(こころ)の頑迷(がんめい)さを離れている。マヒ―河の岸のほとりに一夜の宿(やど)りをなす。わが小舎(こや)(すなわち自身)はあばかれ、(欲情の)火は消えた。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 2、ダニヤ 18、19

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。18について、中村先生は注釈で、註によると牛飼いは、一つの村に定住しない。雨期の四ヵ月は高地に住むが、その残りの時期には草を追って遊牧する。かれは、雨期四ヵ月の始めに、雨期を過す準備をすませたので、このようにいうとのことである。ダニヤーDhaniyaとは信者(Gläubiger)であり、東部インド語の影響を受けた形であるとされ、サンスクリットならdhanikaとなるとされる。これは、「財富ある人の」意とのこと。

対になった詩句による経である。釈迦牟尼の境地が語られている。

17 第1 蛇の章 1、蛇

17 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nīvaraṇe pahāya pañca, anigho tiṇṇakathaṃkatho visallo;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

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五つの蓋(おお)いを捨て、悩みなく、疑惑を超(こ)え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳  第1 蛇の章  1、蛇  17

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、五つの蓋いーその原語(nivaraṇā pañca)は漢訳仏典では「五蓋」と訳される。貪欲と、いかりと、こころのしずむことと、こころのそわそわすることと、疑いとをいうとされる。

悩みなくーanigho. 苦悩の矢ー欲情(rāga)、嫌悪(dosa)、迷妄(moha)、高慢(māna)悪い見解(diṭṭhi)の五つをいうとのことである。注目すべき状態である。

Uragasuttaṃ paṭhamaṃ niṭṭhitaṃ.

この詩句で、「1、蛇」がおわる。自分の心の状態を良く点検すべきだということである。

16 第1 蛇の章 1、蛇

16 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassa vanathajā na santi keci, vinibandhāya bhavāya hetukappā;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

ひとを生存に縛(しば)りつける原因となる(妄執(もうしゅう)から生ずるもの)をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 第1 蛇の章 1、蛇 16

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。

生き続けるという事と、生存に縛りつける原因となる妄執をいささかも持たないということは一見矛盾するように見えるが、苦の原因となるものを除き、死ぬまで幸せに生き続けるということである。

15 第1 蛇の章 1、蛇

15 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassa darathajā na santi keci, oraṃ āgamanāya paccayāse;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

この世に還(かえ)り来る縁となる(煩悩(ぼんのう)から生ずるもの)をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。ー蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1章 蛇の章 1、蛇 15

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。

仏教がこの世に還り来るということを教義の中に取り入れているかどうかについては諸説がある。ただ、当時のインドに輪廻転生思想が定着していたため、説明に当時の大衆が信じていることを土台として使うことは、釈迦牟尼がよく行われていた伝え方として、対機説法という方法をもちいられ、それは、相手が理解できるように話されたということで、当時の常識を踏まえた上でお話をされたと理解できます。

「お釈迦さまが説法されるときは機をみて法を説いたといいます。機とは法を説く相手のことです。その人の人格、年齢、教養、性質、まわりの環境、それらをよく知った上で、その人が理解できるように法を説いたのです。だから、心の底に教えがおさまったのでしょう。一方的な言い方ではなく、まず相手を理解する。その中にことばの交流はある」といいます。http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=65

ここでの主題は、煩悩は苦しみの原因となることであり、そこから離脱すれば涅槃にいたり、幸福になるという教えですから、ここではこの世に還り来ることがあるかどうかについては、問題となるものではないといえます。

典座教訓 2 典座の心構え

『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』に云(い)う。「須(すべか)らく道心(どうしん)を運(めぐ)らして、時(とき)に随(したが)って改変(かいへん)し、大衆(だいしゅ)をして受用(じゅよう)し安楽(あんらく)ならしむべし」と。昔日(せきじつ)、潙山(いざん)・洞山(どうざん)等之(らこ)れを勤(つと)め、其(そ)の余(よ)の諸大師(しょだいし)も、曾(かつ)て経来(へきた)れるなり。世俗(せぞく)の食厨子(しょくずし)、及(およ)び饌夫等(せんぷら)に同(おな)じからざる所以(ゆえん)の者(もの)か。

 山僧(さんぞう)、宋(そう)に在(あ)りし時(とき)、暇日(かじつ)に、前資勤旧等(ぜんしごんきゅうら)に咨問(しもん)するに、彼等聊(かれらいささ)か見聞(けんもん)を挙(あ)げて、以(もっ)て山僧(さんぞう)の為(ため)に説(と)く。此(こ)の説似(せつじ)は、古来有道(こらいうどう)の仏祖(ぶっそ)の遺(のこ)せし所(ところ)の骨髄(こつずい)なり。大抵(たいてい)は須(すべか)らく『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』を熟見(じゅくけん)すべし。然(しか)る後に、須(すべか)らく勤旧(ごんきゅう)の子細(しさい)の説(せつ)を聞(き)くべし。

典座教訓・赴粥飯法  道元  全訳注  中村璋八・石川力山・中村信幸    講談社学術文庫


テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。全訳注者の注釈に、前資は先輩の僧、勤旧は長いあいだ禅の修行道場にあって、さまざまな役職を勤めてきた経験者とある。

食べる人の事を良く考えて、また時期や条件により最善を尽くし、みんなが楽しく食べられるようにしなさいということである。今日のように季節を通じて作物が栽培され、冷凍冷蔵技術が発達せず、物流も都会を中心としたものに限られていたころは、同じ食材を毎日のように頂いたものであり、半ば自給自足ともみえた。このころの献立作りは大変創意と工夫を要したものと思われる。

典座教訓 1 典座の役割 訳文

仏道修行の道場には、本来、それぞれの役職をになった六人の知事がおり、六人はいずれも仏弟子達であり、みな仏道修行に励んでいる。その中でも、典座という一つの職は、修行僧たちの食事を作りととのえることが役割である。『禅苑清規』には、「修行僧たちを供養する必要がある、だから、典座の職がある」といっている。昔から悟りを求める深い心をおこした人達だけが、いつも役にあてられてきた職である。思うにそれは、典座の職というものが、純粋で雑念のない仏道修行そのものであることによる。したがって、もし悟りを求める心がなかったなら、無駄につらいことに心を煩わすだけで、結局なんの得るところもないのである。

典座教訓・赴粥飯法  道元  全訳注 中村璋八・石山力山・中村信幸     講談社学術文庫

色々な修行や練習において、出来る事なら多くの人が行う方法に専念したいと思うのが人の心の常だと思う。しかし禅は行住坐臥すべてが禅であり、典座の仕事も仏道修行である。

家庭では食事を作る人がほぼ一定しており、負担は重い。しかし家族への愛情があれば、、慈しみ思いやりの表現であり、作る本人も幸せを感じることが出来る。このため、食事をいただくときには「いただきます」、食事が終わった時には「ごちそうさまでした」という。食事作りが苦役とならないよう振舞いに気を付けなければならない。

ちなみに学生食堂などでも、「ごちそうさまでした。ありがとう。」などという言葉を聞くと、その学生の心根の一縷がうかがわれる気がする。「他山の石、以て玉を攻むべし」。

14 第1章 蛇の章 1、蛇

14 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassānusayā na santi keci, mūlā ca akusalā samūhatāse;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。ー蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 14

中村先生の注釈によると、悪い習性ーanussaya.潜在的に潜んでいる性向のことであるとされる。顕在化していない悪い習性を抜き去るという事は、出来事があっても反応が起こらないことだと思う。無意識層は自分では左右できないので、意識層から無意識層に情報を送り、無意識層の悪い性向をなくす。その方法としての学習や体験があるのかと思う。

13 第1 蛇の章 1、蛇

13 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ vitathamidanti vītamoho;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄(めいもう)を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。ー蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 13

テキストの文章で漢字にルビが振ってあるものは、カッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、この13番目の経は、迷妄を離れた修行者はー以上四つの詩句において、それぞれ貪り(lobha)または愛欲(rāga)、憎悪(dosa=Skrt. dveṣa)、迷妄(moha愚痴)という三つの煩悩は、人間にとって根本的なものであるから、古来の仏教の学問では、「貪・瞋・癡の三毒」という。rāgaは、愛し、むさぼり、執着すること、mohaとは、真実のすがたを知らず、迷ってぼうとしていることをいうとのことである。

凡夫である私にとって、三毒を離れることは難しいが、この世界を正しく見れていないという事と、悪い思考の習慣によって、自分を傷つけ他人を傷つけるという状況をさらに悪化させていることを知った。

12 第1 蛇の章 1、蛇

12 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ vitathamidanti vītadoso;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪(ぞうお)を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 12

本の記載で漢字のルビがあったものはカッコ書きで表記した。中村先生の別の項の注釈によると、dosaは、(1)嫌悪し、次に(2)憎悪し、さらに(3)打ちのめし害することをいうという。

自分の覚知する世界が偽りであるということはなかなか感じれないが、一緒に生きている個々人が、それぞれ世界を別の見え方で観ていることは何となく感じるところである。自分の見え方が正しくて他人が間違っているとはいえないであろう。

さらに、次々にわき起こり消えてゆくさまざまな思考や感情、車に割り込まれてカッとなった、お腹がすいた、あの時は腹が立った、この映画は退屈だとかいうさまざまな一時的な反応を見せられているに過ぎない。それは、時間がたつと消えていく。嫌な事は何度も再生されることもある。このうつろいやすい細切れの思考や感情は、我や自己であろうか。

何が正しいかという場合に、我というもの、自分という者の存在があるとして、その視点が思考や感情の中心となり、さらに世界の見え方をゆがめているといえる。憎悪もその際の反応に過ぎないと思う。

11 第1 蛇の章 1、蛇

11 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ vitathamidanti vītarāgo;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 11

中村先生の別の部分での注釈によるとrāgaは、愛し、むさぼり、執着することをいう。仏教では否定的なものとしてとらえられる。

人間を煩悩に縛り付ける三毒の一つであることを良く肝に銘じておこう。