歯磨きについて力がかかる、磨けていないような気がする。再度反対の手で調える。自分を許す。完璧を求めない。
投稿者: mindfult
若い頃より時々仏教に興味を持つことはありましたが、持ち前の飽きっぽさで、何ほども学んだり経験したりすることはありませんでした。読書や体験など何かをなし、それを綴りながら、わたしの仏様が存在されることが実感できればうれしいと感じます。
令和元年10月10日 自転車での瞑想
今日はなにも考えることなく景色を楽しんでしまった。
令和元年10月9日 坐る瞑想
坐るのは床である。坐禅によく似ているが、同じかもしれない。坐る場所があれば行うことが出来る。お尻のほうに座布団かクッションをあてる。鼻腔を通過する空気の動きを感じようと試みる。いろいろな想念が浮かぶことがあればそれを感じて空気の流れに戻る。
令和元年10月9日 利き手でないほうの手を使う
利き手でないほうの手は、気を付けて観察すると動きが大雑把である。
令和元年10月8日 椅子に坐る瞑想
鼻腔をくすぐる空気を感じることが出来た。
令和元年10月8日ゆっくり動く瞑想
身体の感じることを聞く。微細ではないが普段気にしていないからといって普段は感覚が生じていないというわけではない。
令和元年10月8日 利き手でないほうの手を使う
利き手でないほうの手を使う事を試してみて、習慣化してみることもおもしろい。
令和元年10月7日 利き手でないほうの手を使う
浴槽を昼頃洗ったのであるが、スポンジをとおして表面のザラザラした感じが手に伝わってきた。
令和元年10月7日 自転車での瞑想
出入息の数をかぞえる。すべてが変わるかけではないが、変わる時もある。
142 第10章 暴力
142 10. Daṇḍavaggo Dhammapadapāḷi
Alaṅkato cepi samaṃ careyya, santo danto niyato brahmacārī;
Sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṃ, so brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhu.
The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/
身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、〈バラモン〉とも、〈道の人〉とも、また〈托鉢遍歴者〉ともいうべきである。
ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元 訳 岩波文庫 真理のことば 第10章 悪 142
中村先生の訳注によると、「身の装いはどうあろうとも」の部分は、141の詩に挙げられる外面的な種々の修行に言及しているとされる。