35 第1 蛇の章 3、犀の角

35 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṃ, aviheṭhayaṃ aññatarampi tesaṃ;

Na puttamiccheyya kuto sahāyaṃ, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩(なや)ますことなく、また子を欲するなかれ、況(いわん)や朋友(ほうゆう)をや、犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章 3、犀の角 35

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、との意である。本書のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えられる生活をしている独覚」に相当する。仏教では、後世になると、三つの実践法(三乗)があるという。「声聞(しょうもん)」(釈尊の教えを聞いて忠実に実践する人)。「独覚」(山にこもって一人でさとりを開く人)。「菩薩」(人々を救おうという誓願を起こして実践する人)。ここで「独りで覚った人」というのは、最初期の仏教の理想である。後代の仏教教学で考えた「独覚」とは必ずしも一致しないとされる。

独りで覚った人そのものを否定すると、釈迦牟尼の悟りを否定することになりはしないかと思うがいかがなもであろうか。

典座教訓 2典座の心構え 訳文

『禅苑清規』に、「食事を作るには、必ず仏道を求めるその心を働かせて、季節にしたがって、春夏秋冬の折々の材料を用い、食事に変化を加え、修行僧達が気持ちよく食べられ、身も心も安楽になるように心がけなければならない」といっている。昔から、あの潙山霊祐禅師や洞山守初禅師も、この典座の職をつとめられたし、そのほかにも多くのすぐれた禅僧達が、この典座職を経験してきたのである。世間一般の料理人や給仕役などと同じように考えてはならない。

私が宋(南宋)の国に留学していたころ、ひまをみては、先輩や長いあいだ役職をつとめてきた人達に尋ねてみたところ、その人達は、自分達が実際に体験し見聞きしてきたことを、少しずつ私のために説き示してくれた。このときの説明は、昔から仏道を求める深い心を持った代々の仏や祖師達が、後の世の人々にのこしてくれた、根本的な教えであった。この典座の職務のあらましについては、『禅苑清規』をよくよく読みなさい。そうした上で、先輩たちの詳しい説明を聞かなくてはいけない。

典座教訓・赴粥飯法  道元   全訳注  中村璋八・石山力山・中村信幸  講談社学術文庫

共同生活において、食事を作ることは大変重要な役割であるが、他の人達が身も心も安楽であるように尽くすことが、なにかの代価であったりするのではなく、仏道の修行そのものだというところから、述べておられる。

われわれの日常生活における一つひとつの仕事もこのようでありたいと思う。

平成31年3月24日 参禅

季節が戻ったようで、とても寒い朝でした。2月の時は外は暗かったですが、いまはもう明るくなりつつあります。ただ鼻から入ってくる空気はとても冷たくて、自分の鼻腔の存在を知ることが出来ました。いまだ、空気の出入りを鼻腔で感じることに留まるという状態を続けることは出来ません。
外では時折鳥が鳴いています。しかし、邪魔になるというほどではありません。座るという事に成功も失敗もなく、ただ座るという事を行っています。
途中から、マインドスキャンを行いました。意識を身体の各所にあてるという事です。今回は、順に特定の部位に空気を吹き込み、次にそこからの空気を口から吹き出すというイメージで行いました。慈悲の瞑想も行いました。特定の文を、繰り返しこころのなかで唱えていきました。

30 第1 蛇の章 2、ダニヤ

30 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Ninnañca thalañca pūrayanto, mahāmegho pavassi tāvadeva;

Sutvā devassa vassato, imamatthaṃ dhaniyo abhāsatha.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のことを語った。

31 第1 蛇の章 2、ダニヤ

31 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Lābhā vata no anappakā, ye mayaṃ bhagavantaṃ addasāma;

Saraṇaṃ taṃ upema cakkhuma, satthā no hohi tuvaṃ mahāmuni.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

「われらは尊き師にお目にかかりましたが、われらの得たところは実に大きいです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依(きえ)いたします。あなたはわれらの師となってください。大いなる聖者よ。

32 第1 蛇の章 1、蛇

32 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Gopī ca ahañca assavā, brahmacariyaṃ [brahmacariya (ka.)] sugate carāmase;

Jātimaraṇassa pāragū [pāragā (sī. syā. kaṃ. pī.)], dukkhassantakarā bhavāmase’’.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッダ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅(ほろぼ)しましょう。」

ブッダのことば 中村元 訳 第1蛇の章 2、ダニヤ 30、31、32

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、眼ある方は、一般的に仏の異名とされているとのことである。

清らかな修行ーbrahmacariya. 漢訳仏教では「梵行」と訳している場合が多い。この場合brahma は清らかな、崇高な、というほどの意味で、cariya は行い、特に行(ぎょう)、宗教的な修養を意味する。後代のインド一般では、brahmacariya というときには、独身で、男女関係を一切断っていること、不婬の行をいうとされる。また、32の詩において「生死の彼岸に達す」というのも「苦しみを滅ぼす」というのも同じことであり、解脱にほかならないとされる。

「sramanic の伝統(仏教ジャイナ教Ājīvika 、Carvaka の学校) の中で、ブラフマチャリアは、一般的に前提条件と考えられている独身の自己強要の練習のために使用される用語であるスピリチュアルな練習。例えば、ジャイナ教の僧侶の5つの偉大な誓いの4番目は、この場合、性的な思考や欲望の回避を含むすべての五感の官能的な喜びからの総禁欲を意味する独身の誓いです。 [19] ブラフマチャリアの美徳にしっかりと根ざしているヨギは、大きな活力を得ると言われている。 [24]  https://www.translatetheweb.com/?from=&to=ja&ref=SERP&dl=ja&rr=UC&a=https%3a%2f%2fen.wikipedia.org%2fwiki%2fBrahmacharya

下記記事のWeb翻訳ツールによる翻訳

「Among the sramanic traditions (Buddhism, Jainism, Ājīvika and Carvaka schools ), brahmacharya is the term used for a self-imposed practice of celibacy generally considered a prerequisite for spiritual practice. The fourth of the five great vows of Jain monks, for example, is the vow of celibacy, which in this case means a total abstinence from the sensual pleasure of all five senses, including the avoidance of sexual thoughts and desires.[19][23] The yogin who is firmly grounded in the virtue of brahmacharya is said to gain great vitality.[24] https://en.wikipedia.org/wiki/Brahmacharya

英語の翻訳前の記事

日本仏教において性的パートナーを持つこと、ないし性についての思考及び行動の禁止の問題はどう解決されているのかはわからない。ただ在家者においては、特定の性的パートナーを持つこと及びその性的パートナーとの性行為は戒律に違反しているとはされない。

普勧坐禅儀  現代語訳

普く坐禅の儀則を勧める書

観音導利興聖宝林寺の沙門 道元 選述す

 もとをたずねてみれば、

仏の教えは、本来、ありとあらゆるところにゆきわたっているから、ことさらに修行やさとりなど必要はない。

仏の教えは、自在にあらわれているのであるから、修行に精進して求める必要もない。

 言うまでもなく、

仏法の全体は、元来、迷妄という埃などかぶっていないから、それをぬぐう必要もない。

仏法の究極は、今、目前にあるのだから、修行に齷齪する必要もない。

 しかしながら、そのとりかかりを、

初めにほんのわずかでも取り違えると、先々天地ほどの隔たりを生ずるし、

道筋をわずかでも違えてしまうと、心が乱れて真実の心のはたらきを見失うことになる。

 そのような場合は、たとえ、

仏法の理解を自慢し、さとりをどんなに言葉豊かに説明しても、それはほんのわずかな智慧を得ただけのことであり、

仏法を究め、心のはたらきを明らかにし、天を衝く気概を得たとしても、

そのようなものは、仏道の入り口をうろつくだけで、ほとんどさとりに徹底するはたらきを欠いて真実のさとりの境涯とはほど遠い。

 ましてや、かの、

祇園精舎で説法なされた釈尊は、生まれながらの智慧をもちながら、なお端座六年された、

その蹤跡は今日なお見ることができるではないか。

嵩山少林寺の達磨大師は、二祖慧可大師に仏法を伝えたが、その面壁九年の評判は今日まだ聞こえているではないか。

釈尊や達磨のような聖人ですら、すでにそのように坐禅された。

遠孫のわれら、そのように坐禅しないわけにはいかないではないか。

 それゆえに、

言葉で探索し、知的理解にたよる仏道修行をやめよ。

内なる根本的な心のはたらきに光をあて、そこを見つめよ。

そのようにするとき、自ずから身心のとらわれが取り払われ、人間本来のすがたが仏のはたらきとして現れる。

そのような境地を得ようと思うならば、すぐにそのあらわれである坐禅に励むがよい。

 さて、

坐禅は静かな部屋が良く、飲食は節度を保つ。

ありとあらゆるかかわりを捨てて、すべてのとらわれを止めて、

善悪や是非などの妄想を起こさないようにする。

心に起こるありとあらゆるはたらきを停止し、心に湧き上がるありとあらゆる思いや何を考えているかさえも心の中に置かないようにする。

そして、仏に成ろうなどと思ってはならない。このことは、坐禅しているときや寝ているとき、日常のあらゆるところでも思ってはならない。

通常、坐禅をする所には、厚く敷物を敷き、その上に坐蒲を用いる。

坐禅の方法には、結跏趺坐と半跏趺坐がある。

結跏趺坐は、まず右足を左の腿の上に置き、左の足を右の腿の上にのせる。

半跏趺坐は、ただ左の足を右の腿の上にのせる。

着る物は緩くゆったりとしながらもきちんと整える。

 次に、

右の手を左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置き、左右の親指が互いに支え合うようにする。

そして、そのまま、きちんと身を正して坐り、左に傾いたり右に傾いたり、前屈みになったり後に反り返ってはならない。

 かならず、

両耳と両肩を水平とし、鼻と臍とを垂直にする。

舌は、上の歯の後ろにつけ、唇と歯が離れないようにし、目はつねに開く。

呼吸は、鼻から静かにし、身体が整ったならば、大きく一度息を吐き出し、左右に身体を揺すり、身体の中心で止める。

そのようにして不動な巌のように坐禅し、言葉をもって成り立つ世界を超脱し、非言語の世界に没入する。これこそが、坐禅の肝心なところである。

 ここで言う。

坐禅は、坐禅をさとりに至る手段とするような習禅の坐禅ではない。ただ、この坐禅こそが、すべての苦悩を超絶した安楽の法門なのである。

それは真実を極め尽くした修行とさとりのすがたであり、そこには、絶対の境地があらわれ、価値判断のしばりなどもない。

もし、この真実の意義が把握されれば、龍が水を得たように、虎が山に依るように、人が人として本来のすがたになり、

そこに、正しい仏法が自ずとあらわれ、心の明暗を超えることになる。

 もし、

坐禅が終わり、坐より立つ場合は、ゆるやかに静かに身体を動かし、

安らかにゆったりと身を起こし、荒々しく立ってはならない。

 昔をよく観察してみると、

祖師方が、凡や聖のあらゆる相対区別の世界を超えたり、坐禅したまま、あるいは立ったまま亡くなったということがあるが、これは坐禅の力による。

 そればかりではなく、

指を立て、竿を倒し、針を使い、鎚をおろして、仏道を学ぶ人々にさとりへの転機を与えたり、払子をふり、拳をあげ、棒で打ち、喝といって、さとりに導くのも、坐禅の力なのである。

それはまた、考えたり判断したりするところで摑みきれるものではない。神通などという摩訶不思議で神秘的な力や修行とさとりなどという言葉をもっては説明しえない。

眼に見え、耳に聞こえるという感覚的な知覚に訴える以外のものである。

 それは、理知とか感覚とかいう以前のものである 

 からなのである。

 それであるから、

仏道の世界では、理解力がすぐれているとかいないとかは問題ではなく、頭が良いとか悪いとかにも一切関係がない。

専一に懸命に坐禅する、その姿こそが仏道の本来のすがたであるからである。

この只管打坐のすがたこそは、修行とかさとりとかにとらわれる修行なのではなく、そのすがたこそが本来のあり方であるから、当たり前のことを行うだけなのである。

 思うに、

自分の住んでいる世界、他の世界、また西のインド、東の中国であれ、どこにおいても等しく仏の教えを保ち、その坐禅の宗風を宣揚しないところはないのである。

それ故、ただ打座に務めて坐禅三昧の境に安住せねばならない。

人の気根は千差万別ではあるが、ただひたすらに坐禅弁道すべきである。

坐禅をする状態こそが、自分の本来のすがたであるのに、その場を投げ捨てて、なぜそれ以外の泥まみれの苦悩の境遇に身をまかせるのか。

仮に、一歩を間違えば、たちまちに大事な瞬間を見失ってしまうことはいくらでもある。

幸いにして、我々はすでに受けがたい人間としての命を受けてこの世に存在しているのであるから、虚しく時間を過ごしてはならない。

仏の命をわが身に受けている以上、瞬間的な火花のような楽しみに身を委ねてはならない。

 なぜなら、

人間の身体は露のようにはかなく、人間の一生は一瞬の稲妻のようなものであり、

たちまちのうちに空しくなり、ほんのわずかな時間で失われるのであるから、

 願わくば、

仏法を真剣に学びたいという高い志をもつ人々よ、彫刻された偽物の龍に慣れ親しんで、本物の龍が目の前に現れたときに、疑いの目を向けるように、仏教は言葉で理解するものと思い込んで、仏道の究極を具体的にあらわしている坐禅を疑うことがあってはならない。坐禅そのものが仏道そのものであることを自覚し、精進し、仏法を学び尽くしたところにとらわれない真実の人を尊び、過去の祖師方が証明してきたさとりを我がものとし、正伝の坐禅を正しく受け継ぐ人にならなければならない。

久しく、言葉では表現しえない坐禅を行ずれば、自分自身が非言語の世界そのものとなり、仏法の宝の蔵がひとりでに開き、その宝物を使うこと思いのままとなるであろう。

道元「小参・法語・普勧坐禅儀」  全訳注  大谷哲夫  講談社学術文庫

28 第1 蛇の章 2、ダニヤ

28 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Khilā nikhātā asampavedhī, (iti dhaniyo gopo)

Dāmā muñjamayā navā susaṇṭhānā;

Na hi sakkhinti dhenupāpi chettuṃ [chetuṃ (ka.)], atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

牛飼いダニヤがいった、

「牛を繋(つな)ぐ杭(くい)は、しっかり打(う)ちこまれていて揺(ゆ)るがない。ムンジャ草でつくった新しい縄はよくなわれている。仔牛もこれを断(た)つことができないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

29 第1 蛇の章 2、ダニヤ

29 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Usabhoriva chetva [chetvā (syā. ka.)] bandhanāni, (iti bhagavā)

Nāgo pūtilataṃva dālayitvā [pūtilataṃ padālayitvā (syā. ka.)];

Nāhaṃ punupessaṃ [puna upessaṃ (sī. syā. kaṃ. pī.), punupeyya (ka.)] gabbhaseyyaṃ, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

師は答えた、

「牝牛のように結縛(むすびいましめ)を断(た)ち、くさい臭いのする蔓草(つるくさ)を象のように踏みにじり、わたくしはもはや母胎(ぼたい)に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ブッダのことば  中村元 訳  第1 蛇の章 2、ダニヤ 28、29

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によるとダニヤ良き世俗の生活をたたえているのであるが、対してブッダは出家者の生活のほうにより高い意義を認めていたとされる。

26 第1 蛇の章 2、ダニヤ

26 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Atthi vasā atthi dhenupā, (iti dhaniyo gopo)

Godharaṇiyo paveṇiyopi atthi;

Usabhopi gavampatīdha atthi, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/

牛飼いダニヤがいった、

「未(いま)だ馴(な)らされていない牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕(はら)んだ牝牛(めうし)もいるし、交尾を欲する牝牛もいる。牝牛どもの主である牡牛(おうし)もいる。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

27 第1 蛇の章 2、ダニヤ

27 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Natthi vasā natthi dhenupā, (iti bhagavā)

Godharaṇiyo paveṇiyopi natthi;

Usabhopi gavampatīdha natthi, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/

師は答えた、

「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。
孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ブッダのことば 中村元 訳  第1 蛇の章  2、ダニヤ  26、27

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、牛はかれらにとって最も大切な財産であった。交換手段として貨幣の代わりに用いられることもあったのでダニヤがこのようの言うのは順当であろうとされる。

24 第1 蛇の章 2、ダニヤ

24 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Attavetanabhatohamasmi , (iti dhaniyo gopo)

Puttā ca me samāniyā arogā;

Tesaṃ na suṇāmi kiñci pāpaṃ, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

牛飼いダニヤがいった、

「わたしは自活しみずから養うものである。わが子らはみなともに住んで健(すこ)やかである。かれらにいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

25 第1 蛇の章 2、ダニヤ

25 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Nāhaṃ bhatakosmi kassaci, (iti bhagavā)

Nibbiṭṭhena carāmi sabbaloke;

Attho bhatiyā na vijjati, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

師は答えた、

「わたくしは何(なん)びとの傭(やと)い人(にん)でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ブッダのことば 中村元 訳   第1 蛇の章  2、ダニヤ 24、25

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、みなともに住んでーこれは、当時の人々の平和な家庭生活の理想であったとされる。

25の詩句の釈迦牟尼の言葉、他人に傭われる必要はないについっては、他人に傭われることなく、精神的には全く独立して生きてゆくという強い確信をもっていた。そうしてそれが高らかな誇りを成立させるのであるといわれる。

覚者は、他に依存せず独立しているといえる。生身の肉体をもたれる時期の覚者の涅槃と、亡くなられたあとの涅槃とは違うという説もある。

「無余涅槃(むよねはん)は、生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。

涅槃とは悟りを得たということであり、全ての煩悩を断じ尽くしているはずであるが、実際には釈迦がさとりを得て、全ての煩悩を滅してしまったとしても、自らの生理的欲求は残っている。その状態を有余涅槃と呼び、その生理的欲求を「余」としている。 」https://ja.wikipedia.org/wiki/無余涅槃


22 第1 蛇の章 2、ダニヤ

22 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Gopī mama assavā alolā, (iti dhaniyo gopo)

Dīgharattaṃ [dīgharatta (ka.)] saṃvāsiyā manāpā;

Tassā na suṇāmi kiñci pāpaṃ, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

牛飼いダニヤがいった。

「わが牧婦(=妻)は従順であり、貪(むさぼ)ることがない。久しくともに住んできたが、わが意(こころ)適っている。かの女にいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

23 第1 蛇の章 2、ダニヤ

23 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Cittaṃ mama assavaṃ vimuttaṃ, (iti bhagavā)

Dīgharattaṃ paribhāvitaṃ sudantaṃ;

Pāpaṃ pana me na vijjati, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

師は答えた、

「わが心は従順であり、解脱(げだつ)している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたくしにはいかなる悪も存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ブッダのことば 中村元 訳  第1 蛇の章 2、ダニヤ 22、23

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、貪ることがないーalola. 食物、装飾品、男、財を貪ることがないのであるとされ、この詩句は当時のインド人のあいだでの理想的な妻のすがたー夫に従順であるのみならず、婚家先の人すべてに対しても従順でなければならぬーを描いているとされる。

これにたいして、釈迦牟尼は自分の境地を示されている。

20 第1 蛇の章 2、ダニヤ

20 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Andhakamakasā na vijjare, (iti dhaniyo gopo)

Kacche rūḷhatiṇe caranti gāvo;

Vuṭṭhimpi saheyyumāgataṃ, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

牛飼いダニヤがいった。

「蚊も虻(あぶ)もいないし、牛どもは沼地に茂(しげ)った草を食(は)んで歩み、雨が降ってきても、かれらは堪(た)え忍であろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

21 第1 蛇の章 2、ダニヤ

21 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Baddhāsi bhisī susaṅkhatā, (iti bhagavā)

Tiṇṇo pāragato vineyya oghaṃ;

Attho bhisiyā na vijjati, atha ce patthayasī pavassa deva’’.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

師は答えた。

「わが筏(いかだ)はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服(こくふく)して、すでに渡りおわり彼岸(ひがん)に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

ブッダのことば 中村元 訳 第1 蛇の章 2、ダニヤ 20、21

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。釈迦牟尼は、すでに此岸から彼岸に渡り終わっていることを伝えている。