26 第2章 はげみ

26 2. Appamādavaggo Dhammapadapāḷi

Pamādamanuyuñjanti, bālā dummedhino janā;

Appamādañca medhāvī, dhanaṃ seṭṭhaṃva rakkhati.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

知慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように、つとめはげむのをまもる。

ブッダの真理のことば 感興のことば   中村元 訳   岩波文庫  真理のことば   第2章 はげみ   26

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、心ある人は・・・はげむのをまもるーappamādañ ca medhāvī dhanaṃ setthaṃ va rakkhati.この文章は恐らくくずれているのであって、appamādaṃ tu medhāvī dhanaṃ śreṣthīva rakṣati ||『心ある人(=修行僧)は、つとめはげむのをまもる。-あたかも富裕な商人が財をまもるように。』と解すべきである。カローシティー文字の『ダルマパダ』(A.1)もチベット訳もそのとおりになっているとされる。

もって回った表現ではあるが、つとめはげむという態度を継続するという事である。英単語本の表紙裏側にも継続は力なりと書いてあった。よいことはなぜか続けないと結果が生じない。悪いことはすぐに結果が出る。悪い結果が出ない人を羨むことがあるが、自分が知らないだけで善良な人なのかもしれないし、機が熟していないだけかもしれない。

69 第1章 蛇の章 3、犀の角

69 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Paṭisallānaṃ jhānamariñcamāno, dhammesu niccaṃ anudhammacārī;

Ādīnavaṃ sammasitā bhavesu, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

独坐(どくざ)と禅定(ぜんじょう)を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章  3、犀の角  69

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、独坐ー
paṭisallāṇa(=tehi tehi sattasaṃkhārehi paṭinivattitvā sallāṇaṃ ekamantasevitā ekibhāvo, kāyaviveko ti attho.Pj.pp.122-123).身を遠ざけて、奥まったところに坐するのである。独坐と禅定を捨てることなくー『ダンマパダ』第20詩参照とされる。

『ダンマパダ』20詩「Appampi ce saṃhita bhāsamāno, dhammassa hoti [hotī (sī. pī.)] anudhammacārī; Rāgañca dosañca pahāya mohaṃ, sammappajāno suvimuttacitto; Anupādiyāno idha vā huraṃ vā, sa bhāgavā sāmaññassa hoti.」「たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法に従って実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。」

独坐と禅定は修行の方法としては特に大切なものである。人間は往往にして思考回路のうち同じ通路を使うことが多い。このため事象に対する反応も個人により定型化されることがある。例えば、からかわれて腹が立つ、かなしくなる、相手が劣って見えるなどである。繰り返すうち、これらの反応はより強化されるが、これは外部からの刺激に対し、その場で自己を守ろうとする防衛としての反応が学習によって修得されたものである。独坐と禅定を繰り返し行うことにより、湧き上がる自己の思いの生成物を観察することによって、自己の反応や思考の傾向に気づき、または気づかずとも定型化した反応を客観視することにより、反応や思考の渦に飲み込まれにくくなっていく。ただし、効果を期待して行ってはならない。それは気づかないうちに訪れるものである。

平成31年4月21日 参禅

空気はだいぶん暖かくなってきましたが、それでも朝の風が堂内に入ると寒く感じます。今日ははじめに、身心脱落とこころの中でつぶやきました。耳には、ときおり野鳥の鳴声が入っては消えていきます。後で聞くと鼻の良い人にはカメムシの臭いも感じられたそうです。身心脱落を実感するには至っていませんが、焦ることもなく時刻が来ました。
次にはボディスキャンを試みました。息を吸い身体のなかの特定の部位に息を送り込んで、吐くときはそこから吸い出すように息を吐きます。これを部位ごとに順に行いました。普段意識しない又は意識している身体の各所に意識をむけるという行為だと聞いています。時間も少しあったので、身体の部位にかなり細かく意識を向けることが出来ました。
慈悲の瞑想です。言葉はいろいろあるようですが、あまり複雑なものは繰り返しもくしょうをすることが出来ないので、自分でわかり易く簡単なものに調整しています。これらは禅のあるべき?すがたとは異なるかもしれませんが、仏道の修行は理屈よりも、試してみて実証することにこそ意義があると聞いています。