67  第1 蛇の章 3、犀の角

67 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ 

Vipiṭṭhikatvāna sukhaṃ dukhañca, pubbeva ca somanassadomanassaṃ;

Laddhānupekkhaṃ samathaṃ visuddhaṃ, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

以前に経験した楽しみと苦しみとを擲(なげう)ち、また快(こころよ)さと憂(うれ)いとを擲って、清らかな平静と安(やす)らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば  中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章  3、犀の角 67

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。楽しみも苦しみも退屈も脳の器官がつくり出したものに過ぎない。物理的な変化や化学的な変化があるが、これらは相互に依存する関係つまり縁起によって成り立っている。

「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる。これがなければ、かれがなく、これが生じなければ、かれが生じない。 」「ナーガールジュナの相依性の縁起が旧来の縁起説と論理的に同値(対遇律)であることに気がつかない学者たちの無駄な論争です。 」佐倉哲氏のHPより

66 第1 蛇の章 3、犀の角

66  1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Pahāya pañcāvaraṇāni cetaso, upakkilese byapanujja sabbe;

Anissito chetva [chetvā (syā. pī. ka.)] sinehadosaṃ [snehadosaṃ (ka.)], eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

こころの五つの覆(おお)いを断(た)ち切って、すべて付随して起こる悪しき悩み(隋煩悩(ずいぼんのう))を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過(あやま)ちを絶(た)ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章 3、犀の角 66

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、隋煩悩ーupakkilesa(Pl.).註は「近づいて心を悩ます不善なるもの」と解する(upakkilese ti upagamma cittaṃ vibāghente akusaladhamme. Pj.)。『倶舎論』によるとニ義がある。(1)一切の煩悩をさす。心にしたがって起こり、煩悩のはたらきをなすからである。(2)六随眠の根本煩悩に対し、それにしたがって起る他の煩悩をいい、枝末感と名づける。この詩において何を意味したか、判然としないが、これらの観念の成立するもとのもとを考えていたのであろう。愛念ーsineha.愛情、恩愛のきずな、をいう。愛念の過ちを断ち切ってーchetvā sinehadosaṃ.ブッダゴーサ註(Pj.p.119)では註解していうーsnehadosaṃ, taṇhārāgan ti vuttaṃ hoti, sneho eva hi guṇapaṭipakkhato snehadoso ti vuttam.この解釈はdosa=Skrt.doṣaと解するからである。これに対して、或る訳者のとっている見解はdosa=Skrt.dveṣaと解するのである。それによるならば「愛憎を断ち切って」ということになる。この見解は語学的には可能であるが、インドの文献一般にdveṣaに対立するのはrāgaであり、snehaと対立して用いられる用例はどうも記憶がない。やはりブッダゴーサの註解に従って解するのが無難であると思われるとされる。

仏道ではいかに知るかということも大切であるが、いかにあるかという事がさらに大切であると考える。文章解釈の隘路に入るのをみると、釈迦牟尼が自分のさとりを伝えることをためらわれた理由の一端を観る。