辨道話 岩波文庫 1

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証(しょう)するに、最上無為(むい)の妙術あり。これたゞ、ほとけ仏(ほとけ)にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。

正法眼蔵(1) 道元 著 水野弥穂子 校注  岩波文庫

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。
以下は管理人の解釈である。「 もろもろのほとけや如来は、それぞれ真実のことわりを伝えてきた。自分というものを表わすための最も優れた方法を伝えてくれた。ほとけに順って間違ったことがないのは、自分が使ってみてよくわかる。」

平成31年4月18日 解釈の変更を行う。
「釈迦牟尼から連綿とそれぞれ師匠から弟子へと伝えられた妙なる法、これはほとけのさとりを実証するのに、最上で自然な方法である。ほとけからほとけへの代々の相伝が間違っていないことは、自分がその教えを試し良いものとして実行していることで証明できるのである。」

7 一つずつの詩句の集成 第1章

7. Bhalliyattheragāthā 1. Paṭhamavaggo
1. Ekakanipāto Theragāthāpāḷi

‘‘Yopānudī maccurājassa senaṃ, naḷasetuṃva sudubbalaṃ mahogho;

Vijitāvī apetabheravo hi, danto so parinibbuto ṭhitatto’’ti.

Itthaṃ sudaṃ āyasmā bhalliyo thero gāthaṃ abhāsitthāti.

The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/

大きな激流が弱い葦の堤を壊(こわ)すように、死王(魔王)の軍勢を破る者は、恐れることのない勝利者である。なぜならば、かれは自(みずか)ら制し、完全に安らぎに達し、自己を安立させているからである。

 尊き人・バッリヤ長老は、このように詩句を唱えた。

仏弟子の告白 中村元 訳  岩波文庫  一つずつの詩句の集成 第1章  7

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。自己を安立させ続けることは難しい。そのような時間の一瞬一瞬の積み重ねが安らぎに達する道であることを願うばかりである。

15 第1章 ひと組みずつ

15  1. Yamakavaggo  Dhammapadapāḷi

Idha socati pecca socati, pāpakārī ubhayattha socati;

So socati so vihaññati, disvā kammakiliṭṭhamattano.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

16 第1章 ひと組みずつ

16  1. Yamakavaggo  Dhammapadapāḷi

Idha modati pecca modati, katapuñño ubhayattha modati;

So modati so pamodati, disvā kammavisuddhimattano.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。

ブッダの真理のことば 感興のことば   中村元 訳  岩波文庫  真理のことば  第1章 ひと組みずつ   15、16

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。悪いことと善いこととは世間的なものと近いがそれとは少し違うものであると感じる。

54 第1 蛇の章 3、犀の角

54 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Aṭṭhānataṃ saṅgaṇikāratassa, yaṃ phassaye [phussaye (syā.)] sāmayikaṃ vimuttiṃ;

Ādiccabandhussa vaco nisamma, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

集会を楽しむ人には、暫時の解脱(げだつ)に至るべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章  3、犀の角  54

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、集会を楽しむ人にはーsaṅgaṇikāratassa(=gaṇābhiratassa.Pj.p.103)。暫時の解脱ーーその原語(sāmayikā vimutti)は「世俗的な禅定」(lokika・samāpatti)の意味である。それを得たときにだけ、一時的に、逆縁である諸々の煩悩から解放されているので、かくいう。太陽の末裔のーĀdiccabandhussa.(Pj.p.105)ではpaccekabuddhassaと書き換えている。ブッダゴーサは、釈尊も独覚の一人であり、ここでは独覚の実践する道を教えている、と解したのであるとされる。

坐禅や瞑想により一時的に平安や幸福感に近いものを感じることがある。感じているのではなく自分の存在というものがなくなっているともいえる。しかしそれはそれを実践している間だけに起こるもので、一日中とはならない。このため世俗的な禅定に近いものだと思っている。

53 第1 蛇の章 3、犀の角

53 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Nāgova yūthāni vivajjayitvā, sañjātakhandho padumī uḷāro;

Yathābhirantaṃ viharaṃ [vihare (sī. pī. niddesa)] araññe, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群(むれ)れを離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫 第1 蛇の章 3、犀の角  53

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、蓮華のようにみごとなーpadumi.padumaとは蓮華の花である。そのように象の肢体がみごとだ、と解すべきであろうとされる。

ここでも独りで修行することの勧めが語られる。独りで修行するということは、山などにこもり独りになるということと、人の中にあっても他人に左右されることが無く修行するという意味とがあると思われるが、ここの場合は、物理的な独りであると思われる。