13 第1章 ひと組みずつ

13  1. Yamakavaggo  Dhammapadapāḷi

Yathā agāraṃ ducchannaṃ, vuṭṭhī samativijjhati;

Evaṃ abhāvitaṃ cittaṃ, rāgo samativijjhati.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養してないならば、情欲が心に侵入する。

14 第1章 ひと組みずつ

14 1. Yamakavaggo  Dhammapadapāḷi 

Yathā agāraṃ suchannaṃ, vuṭṭhī na samativijjhati;

Evaṃ subhāvitaṃ cittaṃ, rāgo na samativijjhati.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

屋根をよく葺(ふ)いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。

ブッダの真理のことば 感興のことば  中村元 訳  岩波文庫  真理のことば  第1章 ひと組みずつ 13、14

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、洩れ入るーsamativijjhati.これはvyadhに由来する。心ーcittaこれを『発句経』では「意」と訳している。情欲ーrāga.これを『発句経』では「淫泆」と訳しているとされる。

仏法の在家者のまもる戒について調べようとしたが、日本においてなにを戒とするかは難しい。しかしスッタ二パータには安らかであれるための戒律が説かれている。

「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』といわれるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつし)む。

未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感覚で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

〈貪欲などから〉遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(りょうぜつ)を事としない。

快いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、何かを嫌うこともない。

利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったろしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さか)らうことがなく、美味に耽溺することもない。

平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには生存のための妄執も生存の断滅にための妄執も存在しない。

諸々の欲望を顧慮することのない人、-かれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛めの結び目は存在しない。かれはすでに妄著を渡り了(お)えた。

かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

世俗の人々、また道の人・バラモンがかれを非難して〈貪りなどの過(とが)〉があるというであろうが、かれはその〈非難〉を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

聖者は、貪りを離れ、慳みすることがなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

かれは世間において、〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴(おもむ)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

スッタ二パータ848-861 中村元 訳 ブッダのことば 岩波文庫

とあり、参考になる。

52 第1 蛇の章 3、犀の角

52 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Sītañca uṇhañca khudaṃ pipāsaṃ, vātātape ḍaṃsasarīsape [ḍaṃsasiriṃsape (sī. syā. kaṃ. pī.)] ca;

Sabbānipetāni abhisambhavitvā, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

寒さと暑さと、飢(う)えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章  3、犀の角  52

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、寒さと暑さと、飢えと・・・ー他の仏典でも同様のことをいう(Jātaka 1,p.93)。これは大変な苦行であり、原始ジャイナ教徒の説くところとそう大して異ならない。これは、当時の修行者の実践を仏教がほぼそのまま採用したのである。ただ、仏教は次第に苦行を行わなくなった。そのために、後世には、他の諸宗教から、「仏教の修行者はだらけている」という非難を受けるに至ったとされる。

どの程度のことが苦行であるかはわかりにくく、釈迦牟尼が苦行に利益がないとされたかわからないが、当初の仏教の修行者はこのように修行していた人もいたのであろうと思われる。釈迦牟尼のいわれる中道は、苦行自体が目的化しその環境に気を取られるようではいけないという事であると思われ、その許容範囲は個人によって異なるであろうし、一般の生活も安楽な方に移行している。一般論として現代にそれを求めることは出来ないであろうし、事故があれば指導者の責任が問われる今日では難しいと思われる。