1 第1章 ひと組みずつ 

1 1. Yamakavaggo Dhammapadapāḷi

Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā;

Manasā ce paduṭṭhena, bhāsati vā karoti vā;

Tato naṃ dukkhamanveti, cakka

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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。-車をひく(うし)の足跡に車輪がついて行くように。

2 第1章 ひと組みずつ

2 1. Yamakavaggo Dhammapadapāḷi

Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā;

Manasā ce pasannena, bhāsati vā karoti vā;

Tato naṃ sukhamanveti, chāyāva anapāyinī [anupāyinī (ka.)].

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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。-影がそのからだから離れないように。

ブッダの真理の言葉 感興の言葉 中村元 訳 岩波文庫 真理の言葉 第1章 ひと組みずつ 1、2 

中村先生の訳注によれば、ひと組みずつーYamaka.対になっている二つの詩が合して、一つのことがらを説いているのである。漢訳『法句経』では「雙要品」となっている。心ーmano(=Skrt.manos)この語は「意」と訳すのが、古来日本に伝えられた伝統的教学のきまりであり、諸邦訳者もこの呪縛から脱することができなかったし、わたくしもそうであった。(それに従わないと、学問的でない、と非難される。)しかし、維祇難等訳『法句経』「雙要品」の対応個所では「心」と訳している。その方が解り易いから、古い呉時代の訳にしたがった。長井真琴博士はmanoを「意志」と訳し、「マナスはすべての心の働きの中心となっているもので、動機といってもよい」と解する。

私たちは同じ世界を生きているようにみえる。しかし、個人個人の思考や考え方の癖、好き嫌いなど、こころのなかでは、その人ひとり一人のそれぞれの思考、または思考によってなされる行動によって、つくり出される映像や音声は別のものであると考えられる。またその思考は断片的、一時的で、次々と起こっては消える雑多なものであり、それは新しいものや、過去からの思いが自分流に改変されたものであったりする。このため、人はそれが自分自身であったとしても、ころころとかわる世界を見ているし、他人であればもっと異なるのではないだろうか。

2 一つずつの詩句の集成 第1章 

2. Mahākoṭṭhikattheragāthā 1. Paṭhamavaggo
1. Ekakanipāto Theragāthāpāḷi

‘‘Upasanto uparato, mantabhāṇī anuddhato;

Dhunāti pāpake dhamme, dumapattaṃva māluto’’ti.

Itthaṃ sudaṃ āyasmā mahākoṭṭhiko [mahākoṭṭhito (sī. syā.)] thero gāthaṃ abhāsitthāti.

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かれは、心が静まり、(欲望が)止み、思慮して語り、ざわざわすることなく、悪いことがらを吹き払う。-風が木の葉を吹き払うように。

 尊き人マハーコッテカ長老は、このように詩句を唱えた。

仏弟子の告白 中村元 訳 岩波文庫 一つずつの詩句の集成 第1章 2

中村先生の注釈によると、思慮して語るーmantabhāṇin.『真理の言葉』(Dhammpada)第363詩に対する注記とあるので、当該箇所を参照すると、「思慮して語りーmantabhāṇin.恐らくサンスクリットのmandaまたはmandraの修飾形mannaからパーリ語に直されたとリューダースは解する。「やさしく語る人」という語義になる。次にmadhuraṃ bhāsitaṃという語が来るからいちおう筋の通った説明ではあるが、確実な説得力をもっていない。いちおうパーリ文註釈にしたがって解した。 」とされる。

凡夫である私にはとても得難い心境ではあるが、このような美しい言葉を繰り返し聞くことによって、自分自身が、一日にひと時でもそのような状態であればありがたいと思う。

41 第1 蛇の章 3、犀の角

41 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Khiḍḍā ratī hoti sahāyamajjhe, puttesu ca vipulaṃ hoti pemaṃ;

Piyavippayogaṃ vijigucchamāno, eko care khaggavisāṇakappo.

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仲間の中におれば、遊戯と歓楽(かんらく)とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫  第1 蛇の章 3、犀の角  41

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、情愛ーpema.最初期の仏教においては、独り修行するということが、とくに尊重されていたとされる。

ここで出てくる仲間は、一緒に修行する仲間というより通常の友人を指しているようである。子らに対する情愛は、いろいろな意味で影響が大きく、通常人をして判断を狂わせるほど大きなものであると了解する。別れることを厭いながらもというのは、そのような情愛の感情を振り切ってでもということであろうか。