33 第1 蛇の章 2、ダニヤ

33 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Nandati puttehi puttimā, (iti māro pāpimā)

Gomā [gomiko (sī. pī.), gopiko (syā. kaṃ.), gopiyo (ka.)] gohi tatheva nandati;

Upadhī hi narassa nandanā, na hi so nandati yo nirūpadhi’’.

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悪魔パーピマンがいった、

「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。
執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。

34 第1 蛇の章 2、ダニヤ

34 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ

‘‘Socati puttehi puttimā, (iti bhagavā)

Gopiyo gohi tatheva socati;

Upadhī hi narassa socanā, na hi so socati yo nirūpadhī’’ti.

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師は答えた、

「子のある者は子について憂(うれ)い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」

ブッダのことば 中村元 訳  第1 蛇の章  2、ダニヤ  33、34

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、子ーputta.娘をも含めて意味しているに違いない。執著するものーその原語upadhi は難解であり、註釈及び諸学者は種々に解する。

Dhaniyasuttaṃ dutiyaṃ niṭṭhitaṃ.

ここ34でダニヤがおわる。日常の幸せを感じているものが出家者の幸せをより高い幸せと感じているということになったという展開であった。

1 一つずつの詩句の集成 第1章 

1. Subhūtittheragāthā 1. Paṭhamavaggo
1. Ekakanipāto Theragāthāpāḷi

‘‘Channā me kuṭikā sukhā nivātā, vassa deva yathāsukhaṃ;

Cittaṃ me susamāhitaṃ vimuttaṃ, ātāpī viharāmi vassa devā’’ti.

Itthaṃ sudaṃ [itthaṃ sumaṃ (ka. aṭṭha.)] āyasmā subhūtitthero gāthaṃ abhāsitthāti.

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私の庵(いおり)はよく葺(ふ)かれ、風も入らず、快適である。天の神よ、思うがままに、雨を降らせ。わたしの心はよく安定し、解脱している。わたしは努力をつづけている。天の神よ、雨を降らせ。

 尊き人・スプーティ長老はこのように詩句を唱えた。

仏弟子の告白 中村元 訳 岩波文庫 一つずつの詩句の集成 第1章 1

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の訳注によると、天の神ーdeva.div(輝く)という語源に由来し、元来は「天空で輝くもの」という意味を内包している。devaは「神」のことであるが、漢訳仏典では「天」と訳す。当時の人々は、神が雨を降らす、と考えていた。努力をつづけている。-vihariṃsu.パーリ語やサンスクリット語には、進行形(「・・・しつつある」)が無いから、viharati.caratiなどの語を以て進行形を示す。

スプーティ ー Subhūti.(須菩提[しゅぼだい]と音写し、善吉・善現と訳す)はシュラ―ヴァスティー市の長者の子として生まれた。祇園精舎を寄進した給孤独長者の弟スマナの子である。祇園精舎で釈尊の弟子となった。ブッダから無諍第一の弟子とたたえられた。かれは後代には空を理解すること第一といわれ、解空(げくう)、空生(くうしょう)ともいわれた。般若経典のなかでもブッダの説法の相手として常に登場しているとされる。

もとより庵は自分自身のことを表しているものと思われる。解脱後も努力をつづけるという事は一定の境地に到達したとしてもそれに安住することなく修行が続くことを示しており、場合によってはささやとも思われる過失が重大な結果に結びつくこともあるという言葉ともとれる。

テーラガーター [序の詩句]

Theragāthāpāḷi  Nidānagāthā

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa

かの尊き師・尊敬さるべき人・正しく覚れる人に、敬礼したてまつる。

Sīhānaṃva nadantānaṃ, dāṭhīnaṃ girigabbhare;

Suṇātha bhāvitattānaṃ, gāthā atthūpanāyikā [attūpanāyikā (sī. ka.)].

1 山窟にひそみ、咆哮する、牙ある獅子どもの声を聞くように、自己を修養した修行者たちのみずからに言及する詩句を聞け。

Yathānāmā yathāgottā, yathādhammavihārino;

Yathādhimuttā sappaññā, vihariṃsu atanditā.

2 知慧ある人々が、その名にふさわしく、その姓にふさわしく、定められたきまりのとおりに暮し、真受したとおりに、怠ることなく、日を送っていた。

Tattha tattha vipassitvā, phusitvā accutaṃ padaṃ;

Katantaṃ paccavekkhantā, imamatthamabhāsisuṃ.

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3 かれらは、ここかしこに真理を観じ、不死の境地(ニルヴァーナ)を体得し、なしとげた成果を省察しながら、次のことを説いた。

仏弟子の告白  中村元 訳 岩波文庫   序の詩句

中村先生の訳注によると、序の詩句 ダンマパーラ(Dhammapāla)の注解によると、これらの序詩は、「もろもろの長老をたたえて、第一結集のときに、アーナンダがつくったものである」という。しかしこの伝承がどれだけの根拠をもっているか不明であるとされる。

これらは釈迦牟尼が説かれたものではないが、釈迦牟尼に近いところにあって、境地を開いた人たちの言葉として語られるものであり大いに味わいさせてほしいものと思う。

40 第1 蛇の章 3、犀の角

40 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Āmantanā hoti sahāyamajjhe, vāse ṭhāne gamane cārikāya;

Anabhijjhitaṃ seritaṃ pekkhamāno, eko care khaggavisāṇakappo.

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仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  岩波文庫  第1 蛇の章 3、犀の角 40

禅や瞑想にはいろいろな方法があるが、自分自身が行う場合は、他の人と同じ所で行っているとしても、ひとりである。また、心に何事か浮かんでも、それにとらわれることなく流しさって、呼吸など評価の対象でないものを島として、拠り所としてそこに戻るとに務めている。

39 第1 蛇の章 3、犀の角

39 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Migo araññamhi yathā abaddho [abandho (syā. kaṃ.)], yenicchakaṃ gacchati gocarāya;

Viññū naro seritaṃ pekkhamāno, eko care khaggavisāṇakappo.

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林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴(おもむ)くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫  第1 蛇の章 3、犀の角 39

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、独立自由ーその原語(seritaṃ)を註釈及び諸学者の訳にしたがって解した。独り歩めー『マハーバーラタ』(Ⅶ,242,9)でも同様のことをいう。「敬礼をもなすことなく、禍福をともに捨てて、何でも得たものによって生き、森の中を独りで歩め。」もしも仲間がいると、わずらわしい。いつも邪魔される恐れがあるというのであるとされる。

束縛を離れ何ものにもとらわれず自己の正しいと信じる道を進め。