ブッダの〈今を生きる〉瞑想 2

ひとりで生きるより良き道の教え 2

 ひとりで生きるより良き道の教え(一夜賢者経)

世尊がシュラヴァスティの町にあるジェーダ林の僧院に滞在していたある日、私はこのように聞いた。ブッダはすべての僧たちを呼び集め、声をかけた。「比丘たちよ!」

「はい、そろっております」、比丘たちは応える。

世尊はこのように話しはじめた。「『ひとりで生きるより良き道を知る』とはどういうことか、伝えよう。まずその概要を、ついでくわしくその内容を説明していこう。よくよく聴きなさい」

「世尊よ、拝聴します」

ブッダはこのように説いた。

過去を追いかけず

未来に心を奪われるな

過去はすでになく

未来はまだ来ていない

まさに今ここにおいて

いのちを深くありのままに見つめれば

その修行者の心は、不動そして自在にとどまる

今日を励みつつ生きること

明日を待つのでは遅すぎる

死は突然にやって来る

それを避ける手立てはない

賢者は言う

昼も夜もマインドフルネスにとどまる者こそ

『ひとりで生きるより良き道を知る者』であると

「比丘たちよ、『過去を追いかける』とはどういうことか?自分の体(色)がかつてどうであったか、感覚(受)がどうであったか、認知(想)がどうであったか、心の形成(行)がどうであったか、意識(識)がどうであったかなどと考え、これら過去に属する物事に思いわずらい、執着するなら、その者は過去を追いかけている」

「比丘たちよ、『過去を追いかけない』とはどういうことか?自分の体がかつでどうであったか、感覚がどうであったか、認知がどうであったか、心の形成がどうであったか、意識がどうであったかなどと考えても、これら過去に属する物事にとらわれず、執着しないなら、そのものは過去を追いかけてはいない」

「比丘たちよ、『未来に心を奪われる』とはどういうことか?自分の体が行く末どうなるだろうか、感覚が行く末どうなるだろうか、認知が行く末どうなるだろうか、心の形成が行く末どうなるだろうか、意識が行く末どうなるだろうかなどと考え、これら未来に属する物事に思いわずらい、夢想するなら、その者は未来に心を奪われている」

「比丘たちよ、『未来に心を奪われない』とはどういうことか?自分の体が行く末どうなるだろうか、感覚が行く末どうなるだろうか、認知が行く末どうなるだろうか、心の形成が行く末どうなるだろうか、意識が行く末どうなるだろうかなどと考えても、これら未来に属する物事に思いわずらわず、夢想しないなら、その者は未来に心を奪われてはいない」

「比丘たちよ、『現在に押し流される』とはどういうことか?」目覚めた存在(ブッダ)や慈悲と理解の教え(ダルマ)や、調和と気づきのうちに生きる集まり(サンガ)について学びも知りもせず、聖なる導師たちやその教えを知らず、実践することもなく、『この体が自分だ、私とはこの体のことだ。この感覚が自分だ、私とはこの感覚のことだ。この認知が自分だ、私とはこの認知のことだ。この心の形成が自分だ、私とはこの心の形成のことだ。この意識が自分だ。わたしとはこの意識のことだ』と考えるなら、そのものは現在に押し流されている」

「比丘たちよ、『現在に押し流されない』とはどういうことか?目覚めた存在や、慈悲と理解の教えや、調和と気づきのうちに生きる集まりについて学んで身に着け、聖なる導師たちやその教えを知って実践し、『この体が自分だ、私とはこの体のことだ。この感覚が自分だ、私とはこの感覚のことだ。この認知が自分だ、私とはこの認知のことだ。この心の形成が自分だ、私とはこの心の形成のことだ。この意識が自分だ。わたしとはこの意識のことだ』などと考えないなら、その者は、現在に押し流されてはいない」

「比丘たちよ、私はここに『ひとりで生きるより良き道を知る』ことの概要とその詳細を伝えた」

ブッダはこのように説き、比丘たちは歓喜してその教えを実践に移した。

ブッダの〈今を生きる〉瞑想(Our Appointment with Life & Two Treasures)  ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)  島田啓介訳

このテキストでは、まず経典が示される。そののち解説なりに移る。

38 第1 蛇の章 3、犀の角

38 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ

Vaṃso visālova yathā visatto, puttesu dāresu ca yā apekkhā;

Vaṃsakkaḷīrova [vaṃsakaḷīrova (sī.), vaṃsākaḷīrova (syā. kaṃ. pī.), vaṃsekaḷīrova (niddesa)] sajjamāno, eko care khaggavisāṇakappo.

The Pāḷi Tipiṭaka   https://www.tipitaka.org/

子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば 中村元 訳  第1 蛇の章  3、犀の角  38

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。釈迦牟尼の出家にいたる境地である。肉親の関係は複雑に絡み合っており、過去の出来事や未来への想像なので今ここに留まることは難しい。「父母未生以前の本来の面目」というのは仏道修行への勧めととらえることが出来るかと思う。