35 1. Uragavaggo 3. Khaggavisāṇasuttaṃ
Sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṃ, aviheṭhayaṃ aññatarampi tesaṃ;
Na puttamiccheyya kuto sahāyaṃ, eko care khaggavisāṇakappo.
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あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩(なや)ますことなく、また子を欲するなかれ、況(いわん)や朋友(ほうゆう)をや、犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。
ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 3、犀の角 35
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、との意である。本書のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えられる生活をしている独覚」に相当する。仏教では、後世になると、三つの実践法(三乗)があるという。「声聞(しょうもん)」(釈尊の教えを聞いて忠実に実践する人)。「独覚」(山にこもって一人でさとりを開く人)。「菩薩」(人々を救おうという誓願を起こして実践する人)。ここで「独りで覚った人」というのは、最初期の仏教の理想である。後代の仏教教学で考えた「独覚」とは必ずしも一致しないとされる。
独りで覚った人そのものを否定すると、釈迦牟尼の悟りを否定することになりはしないかと思うがいかがなもであろうか。