24 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ
‘‘Attavetanabhatohamasmi , (iti dhaniyo gopo)
Puttā ca me samāniyā arogā;
Tesaṃ na suṇāmi kiñci pāpaṃ, atha ce patthayasī pavassa deva’’.
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牛飼いダニヤがいった、
「わたしは自活しみずから養うものである。わが子らはみなともに住んで健(すこ)やかである。かれらにいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
25 第1 蛇の章 2、ダニヤ
25 1. Uragavaggo 2. Dhaniyasuttaṃ
‘‘Nāhaṃ bhatakosmi kassaci, (iti bhagavā)
Nibbiṭṭhena carāmi sabbaloke;
Attho bhatiyā na vijjati, atha ce patthayasī pavassa deva’’.
The Pāḷi Tipiṭaka https://www.tipitaka.org/
師は答えた、
「わたくしは何(なん)びとの傭(やと)い人(にん)でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
ブッダのことば 中村元 訳 第1 蛇の章 2、ダニヤ 24、25
テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈によると、みなともに住んでーこれは、当時の人々の平和な家庭生活の理想であったとされる。
25の詩句の釈迦牟尼の言葉、他人に傭われる必要はないについっては、他人に傭われることなく、精神的には全く独立して生きてゆくという強い確信をもっていた。そうしてそれが高らかな誇りを成立させるのであるといわれる。
覚者は、他に依存せず独立しているといえる。生身の肉体をもたれる時期の覚者の涅槃と、亡くなられたあとの涅槃とは違うという説もある。
「無余涅槃(むよねはん)は、生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。
涅槃とは悟りを得たということであり、全ての煩悩を断じ尽くしているはずであるが、実際には釈迦がさとりを得て、全ての煩悩を滅してしまったとしても、自らの生理的欲求は残っている。その状態を有余涅槃と呼び、その生理的欲求を「余」としている。 」https://ja.wikipedia.org/wiki/無余涅槃