典座教訓 2 典座の心構え

『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』に云(い)う。「須(すべか)らく道心(どうしん)を運(めぐ)らして、時(とき)に随(したが)って改変(かいへん)し、大衆(だいしゅ)をして受用(じゅよう)し安楽(あんらく)ならしむべし」と。昔日(せきじつ)、潙山(いざん)・洞山(どうざん)等之(らこ)れを勤(つと)め、其(そ)の余(よ)の諸大師(しょだいし)も、曾(かつ)て経来(へきた)れるなり。世俗(せぞく)の食厨子(しょくずし)、及(およ)び饌夫等(せんぷら)に同(おな)じからざる所以(ゆえん)の者(もの)か。

 山僧(さんぞう)、宋(そう)に在(あ)りし時(とき)、暇日(かじつ)に、前資勤旧等(ぜんしごんきゅうら)に咨問(しもん)するに、彼等聊(かれらいささ)か見聞(けんもん)を挙(あ)げて、以(もっ)て山僧(さんぞう)の為(ため)に説(と)く。此(こ)の説似(せつじ)は、古来有道(こらいうどう)の仏祖(ぶっそ)の遺(のこ)せし所(ところ)の骨髄(こつずい)なり。大抵(たいてい)は須(すべか)らく『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』を熟見(じゅくけん)すべし。然(しか)る後に、須(すべか)らく勤旧(ごんきゅう)の子細(しさい)の説(せつ)を聞(き)くべし。

典座教訓・赴粥飯法  道元  全訳注  中村璋八・石川力山・中村信幸    講談社学術文庫


テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。全訳注者の注釈に、前資は先輩の僧、勤旧は長いあいだ禅の修行道場にあって、さまざまな役職を勤めてきた経験者とある。

食べる人の事を良く考えて、また時期や条件により最善を尽くし、みんなが楽しく食べられるようにしなさいということである。今日のように季節を通じて作物が栽培され、冷凍冷蔵技術が発達せず、物流も都会を中心としたものに限られていたころは、同じ食材を毎日のように頂いたものであり、半ば自給自足ともみえた。このころの献立作りは大変創意と工夫を要したものと思われる。

典座教訓 1 典座の役割 訳文

仏道修行の道場には、本来、それぞれの役職をになった六人の知事がおり、六人はいずれも仏弟子達であり、みな仏道修行に励んでいる。その中でも、典座という一つの職は、修行僧たちの食事を作りととのえることが役割である。『禅苑清規』には、「修行僧たちを供養する必要がある、だから、典座の職がある」といっている。昔から悟りを求める深い心をおこした人達だけが、いつも役にあてられてきた職である。思うにそれは、典座の職というものが、純粋で雑念のない仏道修行そのものであることによる。したがって、もし悟りを求める心がなかったなら、無駄につらいことに心を煩わすだけで、結局なんの得るところもないのである。

典座教訓・赴粥飯法  道元  全訳注 中村璋八・石山力山・中村信幸     講談社学術文庫

色々な修行や練習において、出来る事なら多くの人が行う方法に専念したいと思うのが人の心の常だと思う。しかし禅は行住坐臥すべてが禅であり、典座の仕事も仏道修行である。

家庭では食事を作る人がほぼ一定しており、負担は重い。しかし家族への愛情があれば、、慈しみ思いやりの表現であり、作る本人も幸せを感じることが出来る。このため、食事をいただくときには「いただきます」、食事が終わった時には「ごちそうさまでした」という。食事作りが苦役とならないよう振舞いに気を付けなければならない。

ちなみに学生食堂などでも、「ごちそうさまでした。ありがとう。」などという言葉を聞くと、その学生の心根の一縷がうかがわれる気がする。「他山の石、以て玉を攻むべし」。

14 第1章 蛇の章 1、蛇

14 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassānusayā na santi keci, mūlā ca akusalā samūhatāse;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。ー蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 14

中村先生の注釈によると、悪い習性ーanussaya.潜在的に潜んでいる性向のことであるとされる。顕在化していない悪い習性を抜き去るという事は、出来事があっても反応が起こらないことだと思う。無意識層は自分では左右できないので、意識層から無意識層に情報を送り、無意識層の悪い性向をなくす。その方法としての学習や体験があるのかと思う。