9 第1 蛇の章 1、蛇

9 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ vitathamidanti ñatvā [utvā (syā. pī. ka.)] loke;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄(きょもう)である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 9

書物の漢字にあててあったルビはカッコ書きで表示した。虚妄を新明解第4版で調べると、事実・ではない(とは違っている)こと。うそいつわり。とある。

中道であることと、自分が知覚している外界の出来事は、真実ではないという事になる。社会の出来事や考えに振り回されてはいけないということだと思う。

8  第1 蛇の章 1、蛇

8  1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṃ accagamā imaṃ papañcaṃ;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり超(こ)えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 8

書物の漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生の注釈では、註によると、努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなくの意で、つまり中道の思想を説いているとされる。妄想の語は漢訳仏典ではよく「戯論」と訳されるとのことである。

極論や極端な行為はダメということだと思う。

釈迦は、6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることができないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のナイランジャナー川(Nairañjanā、尼連禅河)[2]に沐浴をした。

「スジャータは、「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施しましょう」とニグローダ樹に祈った。その望みの通りになったため、祭祀を行っていた。スジャータの下女は、プンナー(Puññā)樹下に坐していた釈迦を見て、樹神と思い、スジャータに知らせた。すると、スジャータは、喜んでその場に赴いて、釈迦に供養した(乳粥供養)。釈迦は、スジャータから与えられた乳がゆ(Pāyāsa)を食して、ナイランジャナー川に沐浴した。なお、『スッタニパータ』では、スジャータは、この乳がゆに、諸天妙汁(Oja)を加えていたと記している。心身ともに回復した釈迦は、心落ち着かせて、近隣の森の大きな菩提樹下に座し、(東アジアの伝承では旧暦12月8日に)遂に叡智を極め悟りを得て、仏教が成道した。
一般的に、釈迦がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある。 」 https://ja.wikipedia.org/wiki/スジャータ

軟弱なわたしの中道と、釈迦牟尼の中道とが同じ程度かといわれると、そうではないと思わざるをえない。



7 第1 蛇の章 1、蛇

7  1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassa vitakkā vidhūpitā, ajjhattaṃ suvikappitā asesā;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整(ととの)えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 7

書物の漢字のルビはカッコ書きで表現した。中村先生の注釈によれば、ここで想念というのは、思慮し思考することである。心の静まった修行者には思慮分別はいらない、ということであるとされる。

心は一時も静まることがなく、お腹がすいた。腹が立つ。請求書が来るはずだ。眠い。昔あった出来事についての自己の感情の回想、将来への不安など一時も休むことがない。人間の獲得した知能は自分自身を苦しめることになった。

わたしたちの遠い祖先が送っていた狩猟生活では、闘うか逃げるかという局面に出会うことがあったか、釈迦牟尼の時代を含め近代においては、人間は物音など少しの出来事や、それに伴う想像思考において交感神経優位となってしまうこととなった。

「闘争・逃走反応(とうそう・とうそうはんのう、英語: fight-or-flight response)は、1929年ウォルター・B・キャノンによって初めて提唱された動物恐怖への反応である[1][2][3]闘争か逃走か反応戦うか逃げるか反応ともいい、戦うか逃げるかすくむか反応(fight-or-flight-or-freeze response)、過剰反応(hyperarousal)、急性ストレス反応(acute stress response)とされることもある。『火事場の馬鹿力』と訳されることもある[4]

キャノンの説によると、動物は恐怖に反応して交感神経系の神経インパルスを発し、自身に戦うか逃げるかを差し迫るという。この反応は、脊椎動物あるいはその他の生物ストレス反応を引き起こす一般適応症候群の初期段階として後に知られるようになった。」https://ja.wikipedia.org/wiki/戦うか逃げるか反応

人間以外の多くの動物は、実際の危険に対応するという必要な反応であるということである。釈迦牟尼の時代にも、このような能力は過剰なものになっていったと思われる。
わたしたち人間は、思考し、未来に不安を持ち、過去を悔やむ能力を獲得したことによって、この反応を頻繁かつ過剰に起こし、自分たちの持っている体内の武器で自分自身を傷つけるようになった。

6 第1 蛇の章 1、蛇

6 1. Uragavaggo 1. Uragasuttaṃ

Yassantarato na santi kopā, itibhavābhavatañca [itibbhavābhavatañca (ka.)] vītivatto;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

内に怒ることなく、世の栄枯盛衰(えいこせいすい)を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 第1 蛇の章 1、蛇 6

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。中村先生は、世の栄枯盛衰という部分の訳については、註(参照された書物の註だと思われる)にしたがって解釈したとされる。原語の意義は、おそらく「(このようになりたい、あのようになりたい)ということを超越した」の意であろうとされる。

ここで超越という言葉が入っていると、単純な隠遁生活を指すものではないと思われる。言い換えると、こだわらないという事に近いと感じる。こだわらないだけでは、求道という意味も落としてしまう可能性があり、このような文章になったのであろうか。世間的な自己の欲望を脱落させよと解釈できる。

どちらかというと負け惜しみをいうような人生を送ってきたわたしは、この様な欲望を常に抱えてきた。およそ世の中の達人と呼ばれるような人々は、他人と比べてこのようになりたいなどとは思わないのであろう。