平成31年3月10日 参禅

今日は、3度目のお寺さんでの坐禅を体験しました。堂内は、始めたころはまだ薄暗く,終わるころには明るくなりました。なかなか無念無想とか、呼吸に集中するというところまではいかなくて、本で読んだ慈悲の瞑想とかを、自分なりにアレンジして試みたりもしました。足はあぐらに組んでいますので、痛くなるという事はありませんでしたが、なぜか上半身が後ろに引かれる感じで、後ろに倒れそうになるのをこらえることがあります。
3月になり、堂内の空気もかなり温かくなってきたせいか、鼻腔を通る冷たい空気を感じるということで鼻腔の先で空気の出入りを感じ、呼吸に戻るという工夫をすることは、あまり出来ませんでしたが、お寺さんで足を組むという事はやはり格別で、なにかしらかの達成感のようなものを感じることが出来ます。

典座教訓 1 典座の役割


仏家(ぶっけ)に本依(もとよ)り六知事有(ろくちじあ)り、共(とも)に仏子為(ぶっした)りて、同(とも)に仏事(ぶつじ)を作(な)す。就中(なかんずく)、典座(てんぞ)の一職(いっしき)は、是(こ)れ衆僧(しゅうぞう)の弁食(べんじき)を掌(つかさど)る。『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』に云(い)う、「衆僧(しゅうぞう)を供養(くよう)す、故(ゆえ)に典座有(てんぞあ)り」と。古(いにし)え依(よ)り道心(どうしん)の師僧(しそう)、発心(ほっしん)の高子(こうし)、充(あ)てられ来(きた)りし職(しょく)なり。蓋(けだ)し一色(いっしき)の弁道(べんどう)に猶(よ)る。若(も)し道心無(どうしんな)くば、徒(いたず)らに辛苦(しんく)に労(ろう)して、畢竟益無(ひっきょうえきな)きなり。

典座教訓・赴粥飯法  道元禅師   全約注 中村璋八・石山力山・中村信幸 講談社学術文庫  1 典座の役割

テキストの漢字ルビはカッコ書きで表記した。

典座(てんぞ)の語の意味は、寺院の僧衆の座位をつかさどることで、元来は、日常生活の衣食住にかかわる牀座・請会・衣服・華・香・菓蓏・煖水・雑餅食の九事を典次し、寺院の規矩を監督する役でもあったが、後にはもっぱら食事に関する調理・管理・出納の一切をつかさどる役となったと注釈があり、道元禅師の頃は後者であったと思われる。

托鉢修行を専らとしていた時期にはなかった職かもしれない。単に苦行だと思えば報われないが、覚りを求める心があれば修行となる。社会にも具体的な報酬の見えない職を務めている人が大勢いる。山家学生式にも「一隅(いちぐう)を照(てら)す、此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと。」

「悪事(あくじ)を己(おのれ)に向(むか)え、好事(こうじ)を他に与え、己(おのれ)を忘れて他を利(り)するは、慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。」とある。

参考 http://www.tendai.or.jp/rekishi/index.03.html

2 第1 蛇の章 1、蛇 

2  1. Uragavaggo  1. Uragasuttaṃ

Yo rāgamudacchidā asesaṃ, bhisapupphaṃva saroruhaṃ [sareruhaṃ (ka.)] vigayha;

So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ.

The Pāḷi Tipiṭaka  https://www.tipitaka.org/

池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

ブッダのことば 中村元 訳 岩波文庫 第1 蛇の章 1、蛇 2

今回は愛欲を断つ勧めである。愛欲には、好きな人やものと離れなければならない苦しみ、嫌いな人やものと一緒にいなくてはならない苦しみとがよく提示される。

生まれた生き物はいつかは死に、生じたものはいつかは壊れる。生じたものがいつの日か滅するのは道理である。愛欲を断つとは、感情を鈍麻させることであろうか。と考えたとき、お釈迦様は覚られた後にケガをされたとき痛くはなかっただろうかと考える。

しかし、お釈迦様も生存中は痛みがないはずもなく、また修行により、共感する力をはじめとして、各種感覚も以前よりさらに鋭敏になっておられたと考えると、愛欲の元となる感覚の生起はより深かったであろうと想像する。

この感覚から生ずるとされる愛欲について、自己の感覚と嗜好と愛着とをうまく手なずける方法を探求する必要がある。